笠間の歴史探訪(vol.81~)
81. 片庭 西福寺の両界曼荼羅
神徳(しんとく)山西福寺は真言宗、京都・醍醐寺(だいごじ)光台院末の金亀(きんき)山無量寿寺(むりょうじゅじ)阿弥陀院(箱田・廃寺)の末寺でした。現在、西福寺跡には北山内村の村長及び県会議員を務めた太田八三郎が、明治2年(1869)に建立した観音堂があります。堂内には、千手観音立像、西福寺住職の位牌のほかに六地蔵図屏風、念仏鉦(ねんぶつしょう)、そして両界曼荼羅(りょうかいまんだら)がありました。昭和40年代頃まで、地区の床取(とことり)(葬儀)には、六地蔵図屏風を逆さに立て葬(とむら)い場を設けました。そして曼荼羅を壁に掛け、出棺の合図には念仏鉦を打ったそうです。
曼荼羅とは、弘法大師が日本に伝えた真言密教の教理の根本を描いたものです。古代インドのサンスクリット語の音訳で「本質的なものを有する」という意味をもっています。両界は胎蔵界(たいぞうかい)と金剛界を表しています。胎蔵界とは、『大日経』に基づき、中心に描かれる大日如来の慈悲がまわりの世界に遍(あまね)く広がっていくさまを表わすといわれ、「理(り)」を説くとされます。院と呼ばれ十二の区画で構成され、中央に描かれている、中台八葉院(ちゅうだいはちよういん)の大日如来を中心に四如来・四菩薩が座し、中台八葉院を囲む院にそれぞれ諸尊が配されています。金剛界とは、『金剛頂経(こんごうちょうきょう)』に基づき大日如来の教えに向かって近づいていくための修行の道筋を示したものであるといわれ、「智」を説くとされます。九会(くえ)と呼ばれる9つの区画で構成されています。
西福寺の両界曼荼羅は二幅ともに縦185cm横120cmの絹本軸物(けんぽんじくもの)です。江戸時代初期に作られたものですが、軸裏面の墨書によると、天明2年(1782)と昭和28年(1953)の修復により美しい色彩を保っています。平成13年(2001)には、市指定文化財となり、現在は市教育委員会が保管・管理しています。
この両界曼荼羅ひとつからも、西福寺の在りし日の隆盛が目に浮かびます。そしてまたこの地域は、弘法大師伝説が色濃く残る土地であり、近くにある「お大師さま」とよばれる弘法大師を祀るお堂や石仏を目にすると、これらの堂宇が人々の信仰のよりどころであったことが実感として伝わります。
(市史研究員 松山京子)
![]() 両界曼荼羅図 金剛界 ![]() 両界曼荼羅図 胎蔵界 ![]() 西福寺跡の観音堂 |
82. 天明六年の大水
近年は毎年のように全国各地で豪雨災害が発生し、多くの方々が被害に遭っています。江戸時代にも大雨による被害が発生しており、天明6年(1786)旧暦7月には関東全域で大雨が降りました。この雨は大きな被害をもたらし、茨城県内でもその被害状況が各地の史料に残されています。
笠間では7月13日(現在の8月6日)から15日まで激しい雷と大雨が昼夜続きました。笠間藩領の富谷村(桜川市)の商人・野村豊房(とよふさ)は「(七月)十六日九つ(正午)前から雷雨となり、篠竹を束ねて上から落とすような勢いの豪雨となり、夜になっても雷がやまず、五つ(午後八時)時分が最も雨も雷も強く、四つ(午後十時)過ぎに所々の山が崩れ始めた。十七日午前中雨が一旦止んだが昼から再び降り始め、夕方より雷雨となり、夜通し大雨が続いた。十八日明け方に降りやんで、午後から曇り空になり、ようやく陽が差した」と記録しました(富谷村野村家永代年代帳(天明3年~寛政3年)より)。
16日以降、笠間城内で16か所の山崩れが生じ、これにより大黒石付近にあった黒門番所が土石流に飲み込まれて谷底へ落ちました。城内各所の土石流が合わさって田町から大町を流れ下り、涸沼川へ落ち、大橋を落としました。土石流の流れに沿った商家、民家、侍屋敷は大きな被害を受け、荒町では民家の床上に四尺(約1.2m)の土砂が堆積しました。城下の南の常楽台(じょうらくだい・下市毛の常楽観音堂付近)でも山が崩れて宍戸・府中(石岡)から江戸に向かう街道が通行不能となりました。笠間側ではやむなく災害の第一報を小山経由の奥州道中で江戸の藩主牧野貞長(さだなが)に届けました。飛脚は昼夜兼行(けんこう)で走り続け、22日夜に江戸に到着しました。城内ではその後も本丸の東櫓(やぐら)門が倒れ、空堀に架かる橋が落ちるなどの被害が続きました。江戸の藩邸(小名木沢下屋敷(おなぎざわしもやしき))も鴨居の高さまで水に浸かりました。
大雨の被害は広範囲でした。特に田畑には土砂が流れ込み、作物が駄目になりました。収穫が見込めず年貢が取れなくなることを「損毛(そんもう)」といいました。常陸国内の領地五万石のうち大雨によると思われる損毛高(だか)が四万石を超えました。財政危機に陥った藩は12月に七千両を幕府から借用し、不足分は三井をはじめとする豪商から借りました。さらに領内の富豪へ御用金を強制的に割り当てました。穀物価格は急騰しました。笠間藩は穀留(こくと)め(穀物の領外への販売制限)を実施し、違反した城下の穀商2軒に戸閉め(営業停止)が申し渡されました。
藩主貞長は多忙でした。幕府の老中として未曽有の被害があった江戸の復旧を指揮していました。その最中の8月中旬に十代将軍徳川家治(いえはる)が体調を崩し、9月に死去、10月に葬送と仏事にも忙殺されました。その間の8月に田沼意次が老中を辞任し、天明7年(1787)6月に松平定信が新たに老中首座となりました。
復旧は根気のいる地道な作業です。洪水の復旧が進むと笠間藩の抱える問題点も明らかになりました。天明7年に一時減少した損毛高は程なく増加に転じ、寛政元年(1789)には一万五千石を超え、以後この水準が続きました。この損毛は耕作放棄によるもので、40年前の延享3年(1746)から既に指摘されていた問題でした。損毛の増加とその原因である農村人口の減少、財政難と借金依存体質からの脱却といった藩の根幹に関わる諸問題は家来たちの努力だけでは解決できませんでした。藩主自らがリーダーシップを発揮して根本的な改革を行わなければならない状況に陥り、それを行ったのが次の藩主の牧野貞喜(さだはる)でした。
(市史研究員 深谷 祐)
![]() 笠間城内での山崩れの場所(天明 6 年笠間城修復願絵図(笠間稲荷神社所蔵)を一部加筆) ![]() 下市毛の常楽観音堂 |
83. 稲田大古山木崎台の玉日君御本廟
JR水戸線稲田駅の南方300mほどのこんもりとした森に玉日廟(たまひびょう)があります。ここは親鸞(しんらん)の妻恵信尼(えしんに)の墓所とされています。恵信尼は長らく京都の九条関白兼実(かねざね)の娘である玉日姫と同一人物とされていましたが、今では越後介三善為教(えちごのすけみよしためのり)の娘であることがわかり別人とされています。親鸞が承元(じょうげん)元年(1207)に後鳥羽上皇の念仏停止令(ちょうじれい)に触れて、越後国に流罪に処せられた際に恵信尼は越後に同行しました。5年ほどで流罪が解かれてから、信濃善光寺に参拝し、上野国(こうずけのくに)佐貫、下野国(しもつけのくに)を経て、常陸国下妻に滞在、その後、笠間の庄司基員(しょうじもとかず)のもとに草鞋(わらじ)を脱ぎ、さらに稲田頼重(よりしげ)(宇都宮頼綱弟)の援助を受け、黒木の草庵(西念寺の辺り)に居住しました。親鸞は稲田を拠点として、常陸国北部、鹿島・鉾田方面、利根川流域、霞ケ浦流域、下野国などに他力本願、阿弥陀信仰を説いていました。元仁元年(1224)には、浄土真宗の経典『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を著しました。
親鸞は、嘉禎元年(1235)頃京都に帰ったとされ、末娘覚信尼(かくしんに)が付き添いました。恵信尼は稲田草庵に残り、子育てをしながら親鸞の教えを伝え、弘長2年(1262)11月、親鸞が90歳で没した時、弟子に命じて遺骨を稲田草庵に持ち帰り、お骨堂にお守りしました。その後、恵信尼は父から譲られた越後国の荘園に子どもたちと移住しました。親鸞の没後、末娘覚信尼に手紙を送っていて、召使の少女の譲渡のことや親鸞の思い出、晩年の新潟での生活など10通の手紙が、大正年間に西本願寺倉庫から発見され話題になりました。
大正2年(1913)、恵信尼を信奉する大谷派婦人懇話会が西念寺の南1kmほどの地に「玉日君御本廟」の石柱を建立しました。柘植(つげ)の参道を進み玉日廟の山門をくぐると参拝所があり、その奥に瑞垣(みずがき)に囲まれた宝篋印塔(ほうきょういんとう)が菩提樹を背に立っています。参拝所の床はきれいに磨かれ、花も飾られていて清々しい気分になります。壁には浄信筆の「恵信尼」肖像と遺書が掲げてあり、恵信尼の命日には、その遺書が奉読されています。
境内にはカシやイチョウなどの大木があり、冬は落ち葉の清掃が大変です。その掃除や樹木の剪定を長年務めてこられたのが根梨敏明(ねなしとしあき)・照子(てるこ)夫妻です。剪定は5年ほど前に亡くなられた敏明さんが担当し毎日の仕事にされていました。松の大木も3本ありましたが、松くい虫の被害により失われ、境内に「三老松の碑」が残るのみです。敏明さんは、玉日廟の見学者に、「恵信禅尼御本廟由緒記」を配り境内の案内もされていました。戦前から戦後にかけて西念寺や玉日廟の見学者が多くみられました。また、境内には、「恵信禅尼玉日子碑」があります。撰文は小栗栖香頂(おぐるすこうちょう)、書は南条文雄(なんじょうふみお)です。さらに、江戸末期の吉原の遊女の墓が3基あります。遊女の間に恵信尼講があり、恵信尼信仰が強かったものと思われます。恵信尼が女性の強い味方だったのでしょう。
恵信尼は文永5年(1268)9月18日に没したとされています。新潟県上越市の米増(よねます)に恵信尼の墓所があります。稲田西念寺には、恵信尼は稲田で亡くなり、木崎台で荼毘(だび)に付され、ここに廟を作ったとの伝えもあります。稲田の地は親鸞と恵信尼とのつながりが残る貴重な土地です。これらの遺跡を大切に後世に伝えていきたいと思います。
(市史研究員 南 秀利)
![]() 恵信尼の宝篋印塔 ![]() 浄信筆「恵信尼」肖像および遺書
玉日君御本廟 |
84. 江戸時代、笠間城下の祇園祭と網天王さん
6月の声を聞くと夏祭りが間近になります。
今回は江戸時代初期に始まった笠間大町・八坂(やさか)神社の夏祭りである「祇園祭(ぎおんまつり)」を紹介します。
祇園祭は平安時代半ば頃、京都で大流行した疫病(えきびょう)を鎮(しず)めるための、東山の祇園社(感神院(かんしんいん))の祇園御霊会(ごりょうえ)が始まりといわれます。神輿(みこし)に移した同社の祭神牛頭天王(さいじんごずてんのう)を、御所(大内裏(だいだいり))に隣接する神泉苑(しんせんえん)へ送って疫病を退散させるという催しで、疫病(悪霊)を水辺に流すという考えを反映しています。
笠間へ牛頭天王の信仰が伝えられた時期は明らかではありません。仏ノ山峠を越えた小貫村(栃木県茂木町)の人々が、同村に祀られる天王社の祭神牛頭天王を菰(こも)に包んで川へ流し、下流の古町(ふるまち)村(石井)の人々が光り輝くこの菰を拾い上げ、集落内に祀ったといわれます。この地が天王塚(てんのうづか)です。天正年間(1573~91)、この祭神を市毛村の三所(さんしょ)神社へ移し仮に安置、しばらくの間そのままに置かれたといわれます。
寛永(かんえい)12年(1635)笠間藩主浅野長直の家臣菅谷四郎兵衛・城下の住人桧山(ひやま)忠次郎の呼びかけで神輿が造られ、同十四年六月、祇園祭が三所神社と城下の人々により始まりました。祭礼の主役は庶民の暮らす五か町(愛宕町・大町・高橋町・新町・荒町)の人々です。天明6年(1786)、現在地に牛頭天王社(八坂神社)が造営されるまで、同祭礼では五か町の希望者の中よりクジ引きで選ばれた当屋(とうや)が祭礼の運営に重要な役割を担っていました。祭礼開始の初年から当屋役の名を記録した文書が残っています。
正保(しょうほう)2年(1645)浅野氏は播州赤穂(ばんしゅうあこう・兵庫県)へ国替えとなり、新藩主井上正利が着任します。寛文(かんぶん)5年(1665)3月、願主菅谷弥右衛門・三所神社祢宜(ねぎ)の仁平宗正(主殿頭(とのものかみ))は、井上氏の重臣津川権太夫(つがわごんたゆう)の力添えもあり、同家臣団127人から芳志(ほうし)を集めて基金とし、京都で神輿を新たに購入しました。城下の若者24人が40日を費やして神輿を担(かつ)いで京都から笠間へ運び寛文5年6月20日に到着、6月24日の本祭礼当日にお披露目されました。煌(きら)びやかな飾りを保護するために網を張り廻(めぐ)らしたこの神輿が「網天王(あみてんのう)さん」(市指定文化財「八坂神社神輿」)です。6月23日が宵祭(よいまつり)、24日に本祭礼、25日が豊作を祈願する「お田植祭」です。この後、24日には「網天王さん」が城下の人々に担がれて大通りを渡御(とぎょ)、揃(そろ)いの衣裳をまとった「笠抜き踊り」の一隊が街中(まちなか)を踊り流し、町内ごとに山車(だし)や造(つく)り物を拵(こしら)えて神輿の渡御に色を添えました。毎年のように水戸や江戸などから芸人が招かれて歌舞伎(かぶき)や浄瑠璃(じょうるり)・大神楽(だいかぐら)などが俄(にわ)か仕じた立ての舞台で演じられ、周辺村々からの見物人も加わり大いに賑(にぎ)わいました。
今風にいうならば、官民が一体となり五か町を挙げて始めた祇園祭です。長い年月の中には笠間藩の財政破綻(ざいせいはたん)や飢饉(ききん)などにより、祇園祭はその都度(つど)左右され、人々も暮らしの浮き沈みを経験しました。五か町の人々は耐え忍び、その度に創意・工夫と努力を重ねて祇園祭を守り今日に至りました。祇園祭は五か町の人々の誇りであり、町の盛衰を示すものでした。
(市史研究員 矢口圭二)
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網天王さん(神輿) |
(写真提供 八坂神社仁平孝之)
85.蒲生郷成伝
本紙「かさまのれきし」第28回「笠間城跡」の中で、石垣をつくったのは蒲生郷成であることが書かれていました。そこで、今回は郷成にスポットを当て、数少ない資料から人物像を考えていきたいと思います。
山田勘蔵『蒲生氏郷小伝』や「蒲生軍記」(宝暦4年(1754))によると、郷成は坂源次郎(さかげんじろう)といい、尾張(おわり)(愛知県西部)に生まれ、柴田勝家(しばたかついえ)の家臣でした。その後、蒲生氏郷(うじさと)の家臣になり、豊臣秀吉の九州征伐に伴い、郷成も九州に出陣しました。島津氏征伐の際、豪勇で名高い熊井越中が守る豊前(ぶぜん)(福岡県東部)と筑前(ちくぜん)(同中部から西部)の国境の岩石(がんしゃく)城は剣山絶谷(けんざんぜっこく)の要害の地で、氏郷は秀吉に願い出て、岩石城攻略の戦陣を張りました。この時、坂源次郎は先陣を切り、勇猛果敢に攻め上り、見事一番乗りを果たしました。この功績が認められて氏郷より蒲生姓と氏郷の「郷」の一字をいただき、蒲生源左衛門郷成(げんざえもんさとなり)と名乗ります。
郷成の活躍ぶりは、次のことからもいえます。会津の氏郷が伊達政宗と対峙(たいじ)したとき、郷成は最前線の白石(宮城県白石市)城代に任命されました。また、天正19年(1591)2月には豊臣秀吉に陸奥国(むつのくに)南部七郡(岩手県北部から青森県付近)を安堵された南部信直(のぶなお)に対して、一族の九戸政実(くのへまさざね)(南部領の北糠部(ぬかのぶ)郡九戸領有)が反乱を起こしました。蒲生氏はこの鎮圧に参加しましたが、「九戸出陣陣立(じんだて)書」(福島県立博物館蔵)によれば一番手右翼が郷成であったと記されています。郷成への氏郷の信任が厚いこともわかります。
「石川正西(しょうさい)聞見集」の中に郷成に関する記述があるので紹介します。この著者は、笠間藩主松平康重(やすしげ)の子で石見国(いわみのくに)(島根県)浜田藩主松平康映(やすてる)の元家老石川正西(昌隆(まさたか))です。正西は万治2年(1659)秋、藩主周防守(すおうのかみ)康映の命を受け、生涯の見聞を記述し、翌年87歳のとき「聞見集」と名付け、主君に献上しました。この「聞見集」によれば、郷成は、笠間在城のとき家中(かちゅう)に早起きして乗馬すること奨めました。また、笠間の町人や百姓に、家作りのために惜しまず木を切らせました。さらに、笠間城を改修し、「笠間は此元の御城のごとく山城に天守を源左衛門殿たて候(そうろう)。よそより見かけは天守のやうにて、内のからくりは岩の上長きみじかき(短き)つかはしら(束柱)をたて物不入のたくミ(巧み)、さてもさても才覚者(さいかくしゃ)にて御座候つる」と評されました。郷成は、石垣普請(ふしん)にも精通した人物です。『長沼町史』に次のように書かれています。
天正十八年(一五九〇)八月、蒲生氏郷が会津の領主になりますと、長沼城(福島県須賀川市)には重臣が城代に任命されました。天正十九年より郷成とあるのは、『二本松市史』4「会津蒲生分限士録稿」に、「二本松・長沼・白石・安子嶋(あこがしま)・守山・三春城主」とありますので確かでしょう。この六か所の人事異動は安子嶋を除いて石垣構築のためと考えられています。穴太(あのう)衆を率いる郷成は短期間に数城に転出し、石垣を築きました。
笠間城でも穴太衆を使い、石垣を築いたと考えられます。「石川正西聞見集」で郷成は、江戸城大手口(江戸城正面入口)の石垣積み直しを指揮して、将軍徳川秀忠に賞されたと記されています。
その他、治水事業にも取り組み、上市毛村や下市毛村の水不足を解消するために涸沼川の取水口(関場)から上市毛用水(蒲生用水)の用水路を建設しました(『笠間市史上巻』)。
郷成は豪傑(ごうけつ)で、城作りでは才を発揮し、蒲生氏郷・秀行親子に仕えた人物で、現在は福島県須賀川市の長禄寺墓地に静かに眠っています。
(市史研究員 福島和彦)
![]() 天守曲輪の石垣 ![]() 天守曲輪石垣の矢穴 ![]() 関場の取水口関場の取水口 |
86.小原の保呂輪神社に残る源義家伝説
保呂輪(ほろわ)神社は、笠間市小原字(あざ)山中の林の中に鎮座しています。友部駅北口前の県道杉崎友部線を水戸方面へ進み、小原集落に入る手前で左折し水田に沿った道を250メートルほど進むと明神(みょうじん)鳥居の前に着きます。参道を進み石段を上りきると、随身門(ずいじんもん)を思わせる神門(しんもん)が建っています。切妻造(きりづまづくり)トタン葺(ぶ)きで、棟(むね)に佐竹氏の家紋「五本骨扇(おうぎ)に月丸」が付いています。佐竹氏の勢力がこの地まで及んでいたと考えられます。神門をくぐると、正面に切妻造瓦葺きの拝殿があり、その内部に本殿を納める独特な構造になっています。
同社については、昭和27年(1952)に発刊された『吾れ等が郷土 大原村』(以下『大原村』)に由緒ある神社として詳しい記述があり、町村合併後に発行された『友部町百年史』や『茨城縣神社誌』などにも紹介されています。
同社の創建や祭神について『大原村』に、往古三白入道が神護景雲(じんごけいうん)二戊申年(つちのえさる)出雲国(いずものくに)大社の祭神である大己貴命(おおなむちのみこと)を当地に勧請(かんじょう)して茨の神と称した、とあります。奈良時代の神護景雲2年(768)に創建された古社で、大己貴命は大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名です。さらに、経津主命(ふつぬしのみこと)(香取神宮の祭神)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)(鹿島神宮の祭神)を加えて三柱(はしら)を祭神としています。
平安時代中期、陸奥国(むつのくに)北部でおこった安倍氏の反乱(前(ぜん)九年の役(えき))を平定するために、武将の源頼義(みなもとのよりよし)が陸奥守(かみ)(のち鎮守府(ちんじゅふ)将軍兼任)に任じられ下向(げこう)しました。実際には、永承(えいしょう)6年(1051)から康平(こうへい)5年(1062)までの12年に及ぶ戦いでした。頼義の長子(ちょうし)源義家(よしいえ)は、京都の石清水(いわしみず)八幡宮で元服したので八幡太郎と称し、父に従い奮戦し武将の名声を高めました。
室町時代に小原の地を治めた里見氏は、保呂輪神社を小原城の守護神として崇敬しており、その記録が残されています。『友部町百年史』や『茨城縣神社誌』によれば、源義家が奥羽(おうう)の乱を平定するに際して営旅の館(やかた)を建て、神社に城の一字を加えて茨城の社(やしろ)と称した。また、烏羽乱之神(うはらのかみ)を三七(さんしち)日間熱願して幌内に勧請した。よって保呂羽(ほろわ)之神と号した、と記されています。
「ほろわ」について調べると、茨城県内に保呂羽神社や保呂和権現があったり、縨輪(ほろわ)という地名があったりします。
義家は小原の古社に駐留した後、大勢の兵士を率いて北方へ行軍し、笠間市大橋で地元の武士団と戦いました。後に、義家軍の陣営跡を「旗鉾(はたほこ)」と呼ぶようになりました。その後、同市池野辺の山を越える途中、同地に留まった時に義家にまつわる地名や苗字がつけられました。地元の人々は、義家から戴いた杯(さかずき)を御神体とし祀(まつ)る八幡神社を守り伝えています。
父頼義没後の永保(えいほう)3年(1083)、義家は陸奥守兼鎮守府将軍として再び常陸国(ひたちのくに)を経て任地へ赴きました。後(ご)三年の役(えき)(1083~87)を平定した帰路も当地方を通過したので、源氏の影響力が東国(とうごく)に根を張り、義家にまつわる地名や伝説などが各地に残っており現在も語り継がれています。
(市史研究員 幾浦忠男)
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源氏の略系図
拝殿(左奥)と神門(右手前) |
保呂輪神社周辺地図 |
87.秋元浚郊と時習館功令・学則
江戸時代の日本は、武士はもちろん、商人、職人、百姓など一般庶民に至るまで文字の読み書きができる識字力が、世界的に見ても高い国でした。その背景には藩校や私塾、寺子屋などの教育環境が整っていたことが挙げられます。
17世紀前半、幕府は積極的に儒学教育を奨めました。その流れは18世紀後半になると、多くの藩が内憂外患(ないゆうがいかん)という社会状況に対応するため、有能な人材を育成することを目的とする藩校の設立へと向かいます。笠間藩において、笠間城下では文化14年(1817)、秋元浚郊(あきもとしゅんこう)の私塾「欽古塾(きんこじゅく)」を藩校とし、名を「時習館」と改め、藩士子弟の教育が本格化しました。時の藩主は名君と称される牧野貞喜(さだはる)でした。
今回は、時習館初代教授の秋元浚郊と彼が著した「時習館功令」と「時習館学則」を紹介します。秋元浚郊については、雨森征煥(あまもりせいかん)の「秋元浚郊先生行状」(大正14年刊行『笠間郷友会会報』)に詳しく記されています。簡潔にまとめると、秋元家は代々笠間藩主牧野家の家臣でした。浚郊は幼い頃から非常に賢く学問に秀でていましたが、生まれながら足に疾(やまい)があったため15歳の頃、ある決意をしました。「武家に生まれながら、武道で身は立てられない。ならば、儒者を目指す」と。浚郊は江戸から来た依田松軒(よだしょうけん)に学び、笠間にある書物を読み尽くし、ついに藩から儒学者と認められ、江戸に上り儒者関松窓(せきしょうそう)の門下に入ります。寛政6年(1794)笠間に戻り、藩命をもって「欽古塾」を開きました。たくさんの子弟に学問を教えていましたが、同8年、ふたたび江戸で研鑽(けんさん)を積みます。その後笠間に戻り、笠間藩士子弟の教育にますます力を注いでいくことになります。
文政6 年(1823)、浚郊の亡くなる前年に著された「時習館功令」と「時習館学則」を読むと彼がいかに博学で、学問に対して真摯な姿勢で臨んでいたか、ということがひしひしと伝わります。「時習館功令学則」の「序」は、笠間藩四代藩主牧野貞幹(さだもと)が書いています。その中で、貞幹は浚郊のことを「まことに、学問の正しい道を子弟に指し示す指南車(※1)だ」と評し、「子弟が功令学則に謹従すれば、英才が次々と出てきて、国が治まり将来有望だ」とも述べています。
「時習館功令」は、人はなぜ学ぶのかということ、そして怠ることなくそれぞれ自分の学びを続けることの意味を分かり易く説いています。一方「時習館学則」を読み解くと、浚郊の考えは江戸で学んだ徂徠学(荻生徂徠(おぎゅうそらい)の学問)が根底にあります。学則一から学則七まで全てにおいて徂徠の思想 (※2)の「道(みち)」を要(かなめ)としており、その「道」を学ぶ意味や具体的な方法を丁寧に解説しています。
「時習館功令・学則」は『詩経』や『書経』、『易経』など古代中国の古典を多々引用しています。そして著されてから現在まで、約200年の時を経(へ)ていますが、人それぞれの長所を伸ばし、家族や友人に思いやりの心で接し、学ぶことを続けることが大切である、といった教えは、今を生きる私たちの心にも深く沁(し)み入ります。
(市史研究員 松山京子)
(※1)指南車 古代中国で用いられた、あらゆる方向に台車を動かしてもその上に乗った仙人像の手は必ず決められた方向を指さし続けるという羅針盤のようなもの。
時習館功令・学則(個人蔵) |
88.麻疹の流行(上)
麻疹(はしか)は、ウイルスが引き起こす急性の感染症です。予防接種がなかった江戸時代には、10数年から20数年の間隔で全国に広がる大流行が繰り返されました。大流行になると小児だけでなく幼児期に流行を経験しなかった大人も身分に関係なく感染しました。後に笠間藩主となる牧野貞通(さだみち)も23歳であった享保15年(1730)11月、大流行のさなかの江戸で麻疹に罹(かか)りました(『御家譜(ごかふ)』)。当時の麻疹の治療は生薬を土瓶で煎じて患者に飲ませ、病後の休養(後養生(あとようじょう))を充分に取らせることでした。後養生の期間は働けないため、商家は店を閉め、農家は農作業をやめ、武士は勤めを休み、社会と経済の動きは止まりました(鈴木則子『江戸時代の流行り病』、以下『流行り病』)。
安永5年(1776)の流行の記録が笠間に残されています(「安永三年祭礼之節天王当屋幷出物等之覚」)。笠間城下随一の賑わいを見せた牛頭天王祭礼(八坂神社祇園祭)は6月に行われましたが、この年の人出について「見物人、麻疹流行(はやり)候故か当年存外少く候」と記録されました。笠間では大流行を知ってか知らずか祭りが執り行われました。
次の大流行は享和3年(1803)にありました。江戸では麻疹に罹って働けない人々に幕府は救いの手を差し伸べました。これは病人だけでなく看護で働きに出られない人々にも米や銭を支給するものでした。笠間では藩主牧野貞喜(さだはる)(貞通の長男)が郡奉行(こおりぶぎょう)の高塩徳左衛門らに領内の麻疹流行の実態調査を命じました。この史料が「御領分茨城郡真壁郡村々麻疹人書上」です(『牧野家文書』)。これによると4月から12月にかけて、五万石の笠間藩領(常陸国内)では合計7671人が罹患し、157人が死亡しました。内訳は男82人、女75人とほぼ半々ですが、年齢見ると大人45人、子ども112人と子どもに多くの犠牲者がでました。五万石の領民の40%以上(武士とその家族は除く)が罹患したと推定されます。この年の2月、世子(せいし)(藩主の跡継ぎ)の牧野貞為(さだため)(貞喜の長男)が江戸で病没しました。22歳の若さでした。
18世紀以降、笠間藩領(常陸国内)は麻疹以外に疱瘡(ほうそう)や病名不明の疫病に何度も見舞われ、戸数と人口が減り続ける原因の一つになりました。藩では村々に病気平癒(へいゆ)の祈祷料を支給したり、藩医の製造した丸薬(がんやく)(奇応丸きおうがん)を配ったり(『枝平内名主(えだへいないなぬし)日記』)、年貢を減免したりしました。しかし、1780年代に入ると浅間山の噴火や天明の飢饉、大水といった自然災害も加わり、農村と藩財政を立て直す藩政改革が必至の状況となりました。
文政6年(1822)から7年にかけても大流行がありました(『流行り病』)。この時の笠間の状況は『十五年来眼目集』(以降『眼目集』)からうかがえます。この史料は郡奉行を長く勤めた手塚多助(たすけ)により編(あ)まれた藩政改革の記録で、当時の笠間藩は文化6年(1809)に始まる藩政改革のただなかにあったこと、文政6年以前から麻疹のほかに疱瘡や病名不明の疫病が流行し、病災の村が多くあったことが記されています。藩はこうした村に対して実情に合った復興支援を組織的に行い、そのなかに医療関係者の表彰と支援がありました。
その一人が小塙村(桜川市)の村医者元孝(げんこう)でした。元孝は疫病が猛威を振るった小塙村で患者を丁寧に診察し、薬種(やくしゅ)(漢方薬の原料の生薬)を購入して1万2000服以上の薬を調剤しました。薬種を買うお金がなくなると家財道具や自分の衣類まで質入れしてそのお金を作りました。文政2年(1819)に代官は元孝の表彰を上申し、藩は翌年に元孝のこれまでの労苦を賞し医療資金十両を支給しました。さらに、若い藩医2名を大岡村(桜川市)に派遣し、疫病が流行している村々で治療に当たらせました。改革の成果はゆっくりですが着実に挙がりました。改革全般を指導した牧野貞喜は藩主職を次男貞幹(さだもと)に譲ると笠間に引っ越し、改革の行く末を案じつつ、文政5年に65歳で病没しました。
(市史研究員 深谷 祐)
御領分茨城郡真壁郡村々麻疹人書上(右:表紙 左:日沢村・上箱田村の麻疹人数) |
89.麻疹の流行(下)
疫病に苦しむ村々は祭りを盛大にして病魔を祓おうとしましたが、感染予防という意識はなかったようです。文化9年(1812)1月、笠間藩領内に疱瘡(ほうそう)の患者が出ると人々が大勢集まって、朝から晩まで大杉囃子(おおすぎばやし)(稲敷市大杉神社から広まった疫病退散のお囃子)を演奏し、人々には食事や酒肴(しゅこう)が振る舞われました。藩は、農業の妨げになることを理由にこれらを禁止しました。
文政元年(1818)、上箱田村に疫病が流行り、藩は疫病退散の祈祷料(きとうりょう)を村に支給しました。6月になると村は天王祭(祇園祭)を社(やしろ)で行う居祭(いまつり)から出社祭(しゅっしゃさい)(神輿(みこし)が社を出て村内を廻る形式か)に変更したいと申し出ましたが、藩は許可しませんでした。また、文政3年3月には来栖村の「村方小前(むらかたこまえ)」たちは新しい天王神輿を祭りで使うと主張し、神主が藩の寺社奉行(じしゃぶぎょう)に願書を出しましたが、藩はこれも許可しませんでした。一度許可すると多くの村々が次々と申請してくることを恐れたためです(※1)。
「村方小前」とは大百姓(おおびゃくしょう)でもなく名主(なぬし)・組頭(くみがしら)といった村役人層でもない村の百姓たち(小前)のことです。藩政改革が進むと村々の戸数と人口がゆっくりと増え始めました(※2)。増えた原因は稲田の西念寺(さいねんじ)が中心となって担った北陸地方からの入百姓(いりびゃくしょう)政策と藩が行った地元農家の次三男による分家政策にありました。この結果、荒れていた田畑が次第に復興されていくと、大百姓のなかには経営が苦しくなる者が現れました。奉公人(使用人)として働いてくれる「小前」がもう集まらなくなったからです。農村復興の担い手になった「小前」たちは、自分たちの要望をはっきりと主張するようになりました。来栖村の天王神輿の願書も彼らの強い要望に押された村役人が書いたものでした。「小前」たちの意向を無視しては復興も村政も祭りも進まなくなってきたのです。
江戸時代最後の大流行は文久2年(1862)でした。長崎出島から始まったとされるこの大流行は重症化しやすく死者が多かったといわれ(※3)、江戸でも多くの死者がでました。笠間の様子はよく分かっていませんが、この最中に笠間で精力的に働いていた人物が美濃(みの)(岐阜県)出身の田中友三郎(1839~1913)でした(※4)。江戸の陶器商であった友三郎は手越・宍戸・石井・箱田等の産地を廻り、各窯元の製品を六十両余で買い占めて江戸に送りました。笠間に来たのは、江戸で麻疹の薬を煎じる土瓶(どびん)が爆発的に売れ、在庫切れとなったことがきっかけでした。そこで、品質に問題がなく価格の安い土瓶や陶器を江戸に近い産地から新しく仕入れようと思い、水戸を経て笠間にやって来ました。笠間産の土瓶や陶器類を江戸に運ぶとすぐ完売したので、再び笠間に仕入れに来ようとしていたところ麻疹に倒れました。幸いに症状が軽く、1か月もかからず全快し、まもなく大流行も終わりました。文久3年、友三郎25歳のことでした。その後の友三郎は明治2年(1869)、江戸から笠間に引っ越し、石井に住んで、笠間焼の発展に力を振るいました。「宍戸焼」、「箱田焼」などという区分けで呼ばれていた陶器を「笠間焼」に統一したのは友三郎だといわれています。麻疹がつないだ縁で笠間に来たともいえます。
(市史研究員 深谷 祐)
※1、2:手塚多助編『十五年来眼目集』
![]() 友三郎顕彰碑 |













