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文化・歴史

笠間の歴史探訪(Vol.31~40)

31.近森稲荷神社

 

笠間駅の北側に位置する稲荷町には、鎌倉時代、初代領主笠間時朝の笠間城築城にあたり、佐白山から阿武権現()黒袴()権現が移されました。この地が今の「近森稲荷神社」です。

かつては明治元年(1872)の神仏分離により、阿武権現はもとの佐白山の佐志能神社に移されましたが、黒袴権現は戻されませんでした。これは、黒袴権現がどういう神なのか庶民に理解されていなかったからといわれています。そこで、この神社は功徳明瞭な稲荷の神を合祀することになりました。この神社は、国の祭礼日「神武天皇祭」である4月3日に祭礼を行っていたことから、いつしか神武神社、俗に神武さんと呼ばれるようになりました。しかし、この祭礼の日は雨天になることが多かったので、明治節(11月3日)に祭礼日を改め現在に至ります。

 祭礼日には「煦路破瑕魔権現御祈祷御璽」「停車場前鎮座稲荷神社御祈祷御璽」の木版刷りのお札2枚を氏子各戸に配布するならわしになっていました。2枚目のお札は明治22年水戸鉄道が開通してからつくられたお札です。字名「稲荷林」に駅が設けられて、新たな集落が誕生すると共に、駅前は町の表玄関と位置付けされることとなりました。笠間の観光上重要な笠間稲荷神社の信仰とも合致することから、この町は「稲荷町」と名付けられ、神社も「停車場前稲荷神社」と呼ばれるようになりました。

 この神社は、茨城県神社庁編「茨城県神社誌」には登載されていませんが、駅前開発とともに、稲荷町の里民だけでなく多くの人々に信仰されてきました。神社に古い寄進板が残されていて、それには笠間の中心街、大町、高橋町等の有力商工業者から受けた高額の寄進の記録が残されています。

昭和37年(1962)稲荷町民の寄進によって上屋を新たに造営し、稲荷町在住の日本画田中嘉三(日本美術院院友)からも見事な天井額絵「龍」の寄進がありました。昭和54年には玉垣の寄進と奉納工事例祭時に掲げる二本の幟旗巍然神威赫々 氏子中」が町民有志より寄進され、さらに幟旗支柱石一対と社前の御手洗石が町内の大島石材店より寄贈されました。

昭和61年、奉殿上屋の増改築工事を機に、区民の合議によって神社の周辺が小字名近森であることから、神社は「近森稲荷神社」と改名されました。この神社の遊園地は借地でしたが、戦時中は避難場所や畑として用いられ、戦後からは、祭礼の会場、映写会、テレビ観賞場、子ども会球技会等の練習場などとして町民に親しまれました。そこで、町内各団体が発起人となって平成3年(1991)136名の寄付によってこの土地を購入しました。平成4年には「神社由来記」が建立され、その石碑には多数の寄付者が載っており、信仰の広がりがわかります。

このように、近森稲荷神社は町民から愛された神社です。町民こぞってわが町の氏神として、今後も敬愛し、後世に引き継ぐことを誓っているようです。

(市史研究員 能島 清光

 

『近森稲荷神社』の画像

近森稲荷神社 

32.涸沼川改修記念碑と宍戸橋

 

涸沼川に架かる宍戸橋の南小泉地内の橋のたもとに、「潤万民」(万民を潤す)と題する記念碑があります。涸沼川の河川改修工事の起工を記念し、昭和26年(1951)に涸沼川改修期成同盟会が建立しました。題額及び撰文と書は、当時の茨城県知事友末洋治の手によるものです。

碑文の要旨は次の通りです。涸沼川は北山内村の国見山山麓に源を発し、東西両茨城郡を貫流し、涸沼を経て那珂川に合流する。流域の町村では涸沼川の水を灌漑用水として利用してきたが、同川は屈曲が多く、堤防が不完全なため、洪水時の被害は年々巨額になる。

そこで、支流を含む流域の一五か町村は涸沼川改修期成同盟会を結成し、県議会議員の協力を得て政府関係機関へ建議、その結果、国庫補助による河川改修事業に採択された。昭和25年5月11日に起工式を行い、碑を建て由来を記し涸沼川改修工事起工の記念とする、と結んでいます。

工事は、下流の川根村(現茨城町)の奥谷付近で国と茨城県の継続事業として開始されました。その後、県による事業となり、上流に向けて工事が続けられています。最近では、宍戸橋付近の川幅を拡げ、川の法面(人工的な斜面)を強化する工事が行われました。

宍戸橋を南小泉側から橋爪側へ渡ると、「昭和4年8月竣工」の銘板が目に入ります。この橋は、太平洋戦争後、昭和30年代からの高度経済成長期には石岡市と笠間市とを結ぶ国道355号の橋として多くの車両が通行しました。同53年、上流に新宍戸橋が建設され、宍戸バイパスが開通すると宍戸橋を通行する車両は減りました。しかし、旧岩間町と旧友部町とを結ぶ橋であり、地域住民の生活道路そして通学路としての役割を担っています。

涸沼川中流に架かる宍戸橋から川の流れや堤防を眺めると、河川改修工事を長期間にわたり取り組んだ先人たちの思いが伝わってきます。

(市史研究員  忠男

『宍戸橋』の画像

 涸沼川改修記念碑(右)と欄干の補修工事を終えた宍戸橋

 

 33.岩間の名勝滝入()り不動堂

 

岩間上郷地区駒場の奥、愛宕山を山越えした裏手の崖に二条の滝がかかり、そこに滝入り不動堂があります。古代からの修験道の聖地であり、愛宕霊山の修験道場の一つとして役割が大きかったことがうかがわれます。さて、このお堂はいつ頃建立されたのでしょう。

「享保十五年(1730)常州岩間御紀行」三代藩主土屋の記録が下郷小沼家に残っています。その文書によると、

「山の麓に滝野入り不動としての所有り。岩根より水流れていさぎよし。いにしへハ堂社・仏像もなかりしに、予が祖父此の地巡検有し時、ここぞ境地殊勝なり。不動尊を安置すべしとて、石に尊像を彫て滝野もとに据えられしより名付けて今にひとつの霊地となりしと聞ハ猶とうとくて拝ミにき。
夕陽流水うつるをりて元ならすと岩根にうつる此滝の入日の影をあらうけしきハ」

と記しています。祖父初代数直がこの地を気に入り、勧請したことをうかがわせています。
また、笠間郷土資料館(旧岩間町図書館)に棟札が残されています。

従五位下相模守源姓土屋氏政直建立、

上棟常州茨城郡岩間村滝入り不動明王堂

寛文十庚戌年二月吉辰

数直が四万五千石の土浦藩主となった寛文九年(1669)の翌年嫡子政直が立派なお堂を建立したのでしょうか。
これまで上郷地区中通りの賢院に安置されている永禄五年(1562)の墨書のある本尊不動明王像と同一のものと伝えられてきましたが(岩間今昔誌より)、今回の「常州岩間御紀行」と「棟札」の調査では、異なるのではないかと思われます。

昭和50年代まで二階建ての滝療法の宿坊が建っていて精神的な病の人など霊験あらたかと病気療養にも利用され賑わいを見せていたようです。現在は地域の人達の努力により周辺を整備し、夏の避暑に秋の紅葉にとちょっとした観光スポットにもなっています。

(市史研究員  史子

 

 『滝入り不動尊』の画像

賑わいを見せていた滝入り不動堂 昭和10年ごろ 

 

34.笠間・大渕の天神社 

 

笠間市街の愛宕町から国道50号を横切り旧水戸街道を東へ進み、才木を経て大渕の集落に入ります。同集落の東端、左手に見えてくる石の鳥居の奥、小高い林の中に天神社の社殿が鎮座します。

鎌倉時代前期に佐白山中に築城した笠間は、笠間城の鬼門封じのため京都・北野天満宮の祭神菅原道真を勧請して大渕の地に天神社を創建したと伝えられます。その後同社は衰退しますが、江戸時代前期の正保2年(1645)に笠間新町で酒の醸造を営む滝野伊兵衛が地元民と共に社殿を再建、神職を迎えて同社を復興しました。遷宮を記念して、伊兵衛は連歌歌仙を奉納しました。

歌仙額とは、平安時代中期の歌人藤原が選んだ36人の歌人の肖像画と詠歌とを、横長の額(扁額)に仕立てたものです。天神社の歌仙額は扁額1面に3人の歌人の肖像画と詠歌から成り、12面ありました。肖像画は江戸狩野派の狩野衛門が描き、伊兵衛自らが和歌を揮毫したもので、絵も書も見事なものです。滝野家歴代の当主は歌仙額の保存に尽力してきました。

ところが、これら歌仙額が盗難に遭っています。損傷の進んだ一面(山部赤人紀貫之伊勢の3人)のみを残し、他の扁額は鋭利な刃物で表部分が切り取られ、額のみが残っていました。誠に残念です。

拝殿中央の長押には、天明4年(1784)、世継ぎ時代の笠間藩の名君、牧野貞喜が巨大なケヤキの1枚板に揮毫・奉納した「天神社」の社名板額(笠間市指定文化財)が、夭折した長子の八歳の折りの書を刻んだ板額と共に掲げられています。わが子の成長を願う親心ですね。子どもの頃、天神講の行事で書の上達を願って書を奉納したことが思い出されます。

後藤縫之が彫刻を担当した本殿と、その傍らの「つくばねかし」の樹木は共に笠間市指定文化財です。氏子の人々は損傷の進んだ拝殿を建て替え、信仰の場と貴重な文化財の保持に努めています。

(市史研究員 矢口() 圭二

『大渕の天神社』の画像

天神社(大渕) 

 

35.大橋天狗党森義健・貞次郎の碑

 

笠間市八田地区に建つ大橋公民館前の道路を横断して丘に登ると、森家累代の墓所があります。同墓所には、「森()君寿蔵碑」と「貞次郎森君碑」が並び建っています。両碑とも、笠間の書家亀井有斐(直)の揮毫()です。

江戸時代、大橋村は水戸藩領でした。森家は大橋村の庄屋兼横目を長年務めました。水戸藩の幕末維新の混乱期に庄屋であった重左衛門(義健)は、尊王攘夷運動を志し、長男貞次郎と共に安政5年(1858)総勢13名で大橋天狗党を結成しました。重左衛門43歳、貞次郎22歳でした。

その実質的リーダーである貞次郎は、文武の道に励む向上心の強い若者であり、成沢村(水戸市)の加倉井砂山の日新塾で学びました。ここで斉藤監物鯉渕要人らと親交を深めて尊王攘夷思想に接し、熱烈な尊攘派となりました。父子共々尊攘派の森家は、大橋村その周辺の村々の尊攘激派の交遊の場となっていました。

貞次郎は、安政~元治年間(1854~64)江戸へ出て国事に奔走し、また藤田小四郎らの筑波山挙兵に馳せ参じました。元治元年(1864)8月、天狗党別働隊の田中愿蔵一派が大橋付近を横行して放火略奪を行ったため、憤激した村役人層は諸生派に与し、森家・筑波挙兵参加者宅を襲撃して二度にわたって打ち壊しを行いました。当時、重左衛門は京都に潜伏していました。

10月、貞次郎らは、大子村に集結した天狗党に合流しました。その折、彼は幼い娘・いその頭をかき撫で名残を惜しみ出発したと伝えられています。これが親子の今生の別れとなりました。

11月1日、武田耕雲斎を総大将とする天狗党は禁裏御守衛総督一橋慶喜を頼って京都へ赴き、朝廷へ尊王攘夷の志を訴えるため大子村を出立しました。時には戦い、時には戦わずして多くの藩領を通過して約千キロを歩き通しました。厳寒に耐えて幾多の山野を踏破し、艱難辛苦の行軍を続け四〇日後、敦賀近郊の新保塾に到着しました。

しかし、彼らを待ちかまえていた幕府・諸藩の追討軍総督が、頼りとする慶喜と知って絶望し、天狗党はついに投降しました。幕府の採決の結果、総勢823名中天狗党総大将武田雲斎以下352名が死罪となり、大橋天狗党から参加した貞次郎(29歳)以下4名も斬刑に処せられました。

明治元年(1868)、明治新政府が成立すると、天狗党が正義で官軍、諸生派が賊軍とされました。重左衛門も5年にわたる潜伏生活から帰村して庄屋職に復帰し、諸生派に与した農民に謝罪状を書かせて許しました。

(市史研究員 萩野谷 洋子)

 『森家墓地内の碑』の画像

 森家墓地内の碑
(左)森義健君寿蔵碑
(中)貞次郎森君碑

 

36.「時習館」創設と桜町時代

 

牧野氏笠間藩三代藩主貞喜は、治世の後半期に藩政改革を断行しましたが、家臣対策では資質の向上と有能な人材の登用を目標に掲げました。具体策として、儒教学者秋元浚郊の家塾「欽古塾」を藩の学校に昇格させ、浚郊を初代教授に任命し、文化14年(1817)3月15日に開館しました。館名は、就学児が初期に学ぶ論語の冒頭の教え「学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや」から時習館と命名されました。

館の所在地は、大和田と五騎町の交差点(現在の笠間小学校近くの交差路)の北側角です。中少姓以上の子弟が8歳になれば入学せよとの達しを出し、貧者には教科書の貸し出しもしました。

貞喜はこの年60歳になり、藩主を引退し、4代藩主に貞幹が就任して、改革政治は引き継がれました。
館舎は、全藩士の子弟を教育するためには手狭になるので、新たに大和田に隣接する桜町内の四反歩余の敷地に館舎と教授邸を新築し、文政6年(1823)11月18日に開館しました。

この年浚郊は、7段階の教育課程を制定し、学ぶことやその順序、目的や内容を記に「時習館功令学則」を編纂して、制度を整えるとともに、教材にも使用しました。翌7年に浚郊が没し、同8年2代目教授に森田桜園が就任しました。

桜町時代は、安政5年(1858)まで続きました。この間特筆されるのは、藩士の加藤桜老が18歳から2年間都講(講師)を努め、その後学問に励み儒学者として天下に名を広めましたが、藩政で執行部と対立したので、時習館に深く関わることはありませんでした。また、長州の吉田松陰が、嘉永4年(1851)に遊学の途上で笠間に立ち寄り、時習館で孟子の講義をしました。

(市史研究員 小室 昭)

『時習館跡地』の画像

五差路を西側から望む。
左信号手前が創設の館跡、右信号の先が桜町の館跡。

 

37.笠間藩の医学

 

牧野氏が治めた笠間藩の医学について紹介します。笠間藩は水戸藩に先んじて藩校を創設、その後、医学館・講武館を設けるなど、人材育成を積極的に取り組んだことが今回の時習館200周年記念企画展準備と調査の中で明らかになりました。

 江戸時代後期の宝暦・天明年間(1751~88)、北関東農村の荒廃は深刻な状態に陥りました。藩の財政を年貢収入に依存する笠間藩も免れませんでした。寛政4年(1792)藩主に就任した3代藩主牧野貞喜、そして4代()の2代にわたる藩政改革は、近視眼的な小手先の改革でなく、藩の将来を見通して人材育成を重視しました。貞喜は窮乏する藩財政の中から資金を捻出して藩校時習館を創設、貞幹はさらにその内容の充実と発展を図りました。医学部門より、その施策と先人たちの奮闘の大筋を辿ってみます。

 笠間藩は不足する医者を確保するため、江戸へ遊学する若者を援助し、医学修業を終えた人物を藩医に重用しました。文政7年(1824)、貞幹は長谷川宗仙(宗遷)を外科・中林宗益本道科()(内科)の医術稽古世話役に任命し、現在の桂町・笠間日動美術館の建つ宗仙の屋敷内に采館(医学館)を創設しました。宗仙は博采館の医学教育を軌道に乗せました。若い時、宗仙は、当時先端医学とされたオランダ語を介した西洋医学の第一人者そして仙台藩医で、江戸京橋にて学塾蘭堂を主宰した大槻玄沢の下で約三年半ほど学び、玄沢からも将来を嘱望()されました。

 一方、奥医師の一人解素()は医学塾鳳鳴館()を開設し、各地の若者を受け入れました。素庵は宗仙や大槻玄沢・紀州の華岡に学び、医業と塾生指導に生涯を捧げました。文政十三年、青洲より学んだ医術を駆使()し、素庵は全身麻酔による外科手術を成功させました。今回、その記録(「()見聞記」)が初めて公開されます。このような先人たちの努力の跡と、その偉業を会場でご覧ください。

  (市史研究員 矢口圭二)

『鼻痔見聞録』の画像

鼻痔見聞記

 

38.総合時習館の創設

 

牧野氏笠間藩8代藩主牧野(貞明、貞利、3代藩主貞喜()の孫)は、幕末の混乱期に教育の重要性を再認識し、分散していた文・医・武の3館を統合して、有能な人材の育成に取り組みました。安政5年(1858)、大和田の地に新教場を設立しました(現笠間小学校)。
新しい館は、大和田の南北を通る府中街道の東側で、ここにあった武家屋敷を移転して、約一町八反歩を敷地としました。敷地の造成は、藩士総出で鍬、唐鍬を持って穴を掘り、凸凹の土地を平らにしたり、土を運んだり、みな精を出し汗を流しました。重臣や医師は金銭を献納し、藩の意気込みが伝わってきます。(森田「時習館碑陰記」)。

 総合時習館の教育は、これまでの儒学重視から、水戸藩の弘道館の影響を受けて、尊王攘夷の考えが表面に出、教材も『日本書紀』『()略記』など日本の書を取り入れ、国学の色彩が強まってきました。

 この時期の主な指導者は、文学の棚谷、三代教授上阪信名、都講太田()武和、医学の中林清方・長谷川恒夫()伸、武術では剣の村上父子、鈴木甚五郎、弓の栗原矢柄、馬術の長島佐太郎ら、錚々()たる顔ぶれでした。

 時習館の就学年齢は8歳からで、教育課程は初期口誦から後期口誦・同対誦・対読高弟小成成業()の7段階でした。試験は大試と小試があり、大試は2月と8月で、必ず藩主が臨席し、生徒の講説を聞いて評価し、優秀者には賞が授与されました。

 明治を迎えて、藩制改革が行われ、時習館は、藩学黌小学と改称し、初級者が学ぶ小学と上級者が学ぶ藩学黌に変わりました。明治4年の廃藩置県により藩校の教育はのちの笠間小学校に引き継がれました。

大正5年、牧野邸の一画(現笠間小学校)に「時習館記」碑が建立され、時習館の精神が明記されています。

 (市史研究員 南 秀利)

『時習館記念碑(笠間小学校)』の画像

時習館記念碑(笠間小学校)

 

39.北山に鎮座する不動尊

 

宍戸駅の北方に北山があり、昔から人々は、北山に鎮座する不動尊(不動明王の尊称)へ参拝していました。

 参詣の道を辿ると、大田町十字路北側に、上部が欠けた「動尊」と刻まれた石柱があります。水路脇の道を進むと、飛龍神社の鳥居西側の道沿いに、「右市原 左不動」と刻まれた石の道標があります。山道を上り北山観光道路に出て更に進むと、白鳥湖(弁天池)が現れ、やがて中池に辿り着きます。フジ棚のある方が昔の参道で、不動尊の境内につながります。

 古書に、「老松古杉うっとして大空にそびえ、瀑布の音淙々として耳朶に徹し仙境に入るの思いあらしむ」と記述されています。

 幕末、天狗と諸生の争いに関わることになった人が、宍戸藩の陣屋を守る行動をしたのち、若者たちと共に不動尊の堂宇に身をめていたということです。今も、スギやモミの古木があり、大きな石がいくつも露出しています。新池からの水が、を伝わって流れ落ちています。昭和9年(1934)に、「北山不動尊」と刻まれた石柱が奉納されました。戦時中、不動尊の縁日である毎月28日には、宍戸駅や友部駅から武運長久を祈る人々の列が切れ目なく続きました。当時の堂宇は高い所にありました。

 北山不動尊は、亀8年(777)に高僧徳一が養福寺を開いた時、随行した行者が北山にこもり、石に()の不動尊を刻み祈願した所と伝えられています。その後、同寺の飛地仏堂となりました。

 道路建設のため、昭和46年(1971)に現在地へ移転改築されました。堂宇は、橋を渡りコンクリート製の階段を上った先、平町北山国有林内にあります。堂宇前に狛犬一対があり、明治42年(1909)奉納の「北山不動明王」と刻まれた石が移されています。入母屋造りの屋根はトタン葺きで、前面に向拝が付いており、奥に不動明王が安置されています。

 高台の山中に移って45年余、「北山のお不動さん」は、訪れる人々を温かく迎えています。       

(市史研究員  忠男

『北山不動尊の堂宇』の画像

北山不動尊の堂宇

 

40.宍戸氏名馬「玉簾塚」の伝説

 

今から800年以上も昔、鎌倉幕府が開かれたころ、将軍頼朝の家人八田知家が常陸国守護として入部しました。涸沼川を挟んで旧岩間町を含む旧笠間市・友部町・美野里町・茨城町など「小鶴」と呼ばれる広大な所領地が宍戸家政()(八田知家の4男)に与えられ、以後「宍戸()」として約400年間領地を守り続けました。

頼朝の有力御家人であった家政は「()」という名馬を飼い、領内の巡視はもとより、山野の狩り、鎌倉の頼朝の御前に伺う時も常に傍に置き、可愛がりました(上野長文氏文書より)。鎌倉から常陸国府間、その距離約300キロメートル、頼朝が治承4年(1180)、在地豪族佐竹氏を攻撃した時、8日間かけて常陸国府(石岡市)へ到着しています。途中鎌倉街道下道(東海道)を利用したと思われます。さぞや宍戸氏も御城から鎌倉府までの道程は大変だったことでしょう。

『岩間今昔誌』(昭和10年発行)は次のように伝えています。「ある時、家政の嫡子は父に許しを請い玉簾にり、鎌倉にき、1日にして宍戸に帰る途次、菅ノ谷にかかる(宍戸旧道滝尻)。玉簾長途の旅に疲れき倒れて起きることができなかった。郷人名馬玉簾の重大使命を果し城下近きに及んでれたるに深く同情し、高さ3尺(約1メートル)、周囲4間位(約7・3メートル)の小塚を設け碑を建てて「玉簾塚」とし岩間名所の1つである」と。

現在、その場所を尋ねると、その古道は砕石所に通じる道として拡幅され毎日数十台のダンプカーが行き交う道路と化し昔の面影はなく、玉簾塚に建つ碑も見当たりません。しかし、それらしき子塚がひっそり道路沿いにあり、その裾に「文政2年馬頭観音」の碑が建っています。道路の反対にはもう1基嘉永の年号が読み取れる馬頭観音の碑も見受けられます。その傍を北へ真直ぐに1・8メートル巾ほどの古道が南小泉の林の中へ伸びています。この道こそが鎌倉へ繋がった鎌倉街道下道の枝道であったことを物語っています。

(笠間市史研究員 川﨑史子)

『鎌倉街道枝道』の画像

滝尻から南小泉へ伸びる鎌倉街道枝道


「笠間の歴史探訪」vol.21~vol.30 

「笠間の歴史探訪」vol.41~vol.50

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