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笠間の歴史探訪(vol.1~10)

1.笠間城の下屋敷

佐白山の麓にある山麓(さんろく)公園は江戸時代「下屋敷(しもやしき)」と呼ばれていました。笠間城の下方にあたるのでそう名付けられ、ここに笠間藩の役所と藩主の居宅を兼ねて御殿がありました。この下屋敷を設置したのは、後に赤穂に移封した城主浅野長直で、江戸幕府が開かれて約40年過ぎた寛永期末の頃です。

それまでの役所は、佐白山頂から僅かに下がった本丸にありました。多くの家臣が勤務するには狭いだけでなく、毎日山道を通勤するには大変な苦労がありました。長直は、きめ細かな藩政をするために城下町に近い現在地に政庁舎を建設しようと、当時この地にあった曹洞宗玄勝院を東側の山下に移転させ、その跡地を造成して周囲を土塁と白壁の塀で囲み、その内に平屋造の荘厳な御殿を建てました。

長直は下屋敷を笠間城の出城として建設したので、特に幕府の許可は得ませんでした。ところが「笠間は新城を建てた」との噂が広がり、幕府は監察使を派遣することになりました。長直は新城でない事を示すために、急遽塀を取り壊させ、一夜にして木の枝で作る「粗朶(そだ)垣根」に造り替え、事なきを得ました。しかし、急場凌ぎの作業のためか杭柱が逆さに打ち込まれた所もあったので、「下屋敷の逆杭(さかさくい)」という伝説になりました。

以後御殿は、明治4年(1871)の廃藩置県まで230年余の間笠間藩役所として継承されました。明治5年に御殿が焼失した後は高等小学校、明治天皇の行幸地、郡役所、小林区署、農学校、史蹟行在所(あんざいしょ)と各種の施設の敷地として活用されました。戦後は公園として市民や観光客の憩いの場となり今日に至っています。

今この地は、緑に覆われゆったりとした時空の中にあるが、身分や格式の厳しい当時は、侍達が職務や立場に応じて様々な人間模様が展開されたことでしょう。

(平成23年8月 小室 昭)

1下屋敷
笠間城の下屋敷跡

 

2.秋田氏の宍戸城本丸土塁跡

笠間市平町旧陣屋一帯は、江戸初期の秋田氏五万石の城跡です。関ヶ原の戦い後、常陸54万石の大守(たいしゅ)佐竹氏の出羽転封のあおりで、秋田実季(さねすえ)の宍戸入封となりました。ここは宍戸氏の館でしたが、宍戸氏は文禄年間に佐竹氏により、海老が島(筑西市明野)に移されており、廃館になっていました。

秋田実季は、「宍戸は城もなく、屋敷構え」で、かなり不満を抱いての入封でした。宍戸城主となった秋田氏の早急(さっきゅう)の課題は、城郭の建設と家臣の屋敷割、菩提寺(ぼだいじ)(高乾院(こうけんいん)・龍穏院(りゅうおんいん))の建立でした。

宍戸城の本丸と北の丸は、土塁と塀で囲み、城門(正門)は西に設けられました。城郭の周囲に家臣の屋敷を配し、持筒組(つつくみ)・鉄砲組・弓組が置かれました。町屋(まちや)(町人・農民居住地)は、北の大田町、南の平町通りでした。紙漉町(かみすきまち)、肴町(さかなまち)、大工町(だいくまち)も形成されました。大田町通りの北に寺院が並んでいました。北から高寺(完全寺)・光明寺・浄安寺(のち唯信寺)、水田を隔てて西へ高乾院・円通寺・観音堂・養福寺・高寅寺(こういんじ)、さらに三光院・龍穏院・清水寺(せいすいじ)・新善光寺がありました。

宍戸城は、城下の南を流れる涸沼川、東は友部丘陵、西は諏訪峠、北は北山の森林を城の防衛線としていました。

秋田氏は、正保2年(1645)8月、奥州三春(福島県三春町)に転封となりました。宍戸藩5万石は幕府領となり、代官が支配しました。城郭と武家屋敷は取り壊され、田畑にされました。

江戸中期に、水戸徳川家の分家、宍戸松平氏1万石の陣屋が、宍戸城本丸跡に設置されました。藩庁のほかに、藩校脩徳館・講武所(武道場)も建設されました。

明治になって、水戸線が敷設され宍戸駅ができると、城跡のまん中に道路が通り、民家が建ち並ぶ今日の姿になりました。土塁や堀跡は当時の面影を遺しています。

(平成23年10月 南 秀利)

2宍戸城
宍戸城本丸の北側土塁跡

3.天狗の棲む愛宕山

岩間の愛宕山の頂上に愛宕神社があります。大同元年(806)徳一大師の開山といわれています。県内の愛宕神社67社の中で創建年代は一番古い神社です。愛宕山は昔、風穴山(ふうけつざん)とも岩間山(いわまやま)ともいわれました。祭神は火の神、迦具土神(かぐつちのかみ)といいます。女人禁制の山でかつては泉地区に女性が宿泊してお祈りするための女人堂がありました。

本殿奥の石段を上がった所に天狗を祀る飯綱神社があり、その後ろに天狗の本拠地青銅の六角堂があります。神輿(みこし)型の屋根のてっぺんに瑞鳥(ずいちょう)がはばたき、堂扉には、菊の紋章が金色に輝いています。その奥に十三天狗の石の祠(ほこら)が並んでいます。また、石尊(せきそん)様の岩場に「十戒、大天狗・小天狗」の文字が刻まれ、岩間天狗の修験道場の姿を今に伝えています。

奇祭、悪退(態)祭は旧暦霜月14日に行われる十三天狗が主宰する祭です。泉地区の氏子が天狗に扮して無言の行で臨み、隙を見て供物をせしめたものは、幸福になれると伝えられています。真夜中の祭ですが、今は昼間行っています。

国学者の平田篤胤(あつたね)は岩間の愛宕山で天狗の修業に励んでいた15歳の天狗小僧寅吉(とらきち)を自宅に引き取り霊界愛宕山と天狗の様子をこと細かに聞き出し、『仙境異聞(せんきょういぶん)』という書物を文政6年(1863)に出版しました。占いの得意な神童寅吉の語る岩間の愛宕山がにわかに評判となり、学者、文化人、江戸中の人々の関心を集め岩間山は一時にぎわいました。

「火伏せの神」を祭る愛宕山には、多くの参詣者が、「火の要慎」の御札を求め、常陸の愛宕信仰の中心となりました。

現在、山麓の車道右側に愛宕古道が落葉に埋もれて眠っています。岩石でゴツゴツした胸突き八丁の切通しの険路です。天狗に逢えるかもしれません。

(平成23年12月 松嶋 繁)

3六角堂
天狗のすみか六角堂
(『図説 岩間の歴史』より転載)

4.豊かな自然と文化財の多い楞厳寺

仏頂山楞厳寺(りょうごんじ)は、山号どおり県境の仏頂山の麓にあります。笠間市石井から県道一号線で片庭の城里町徳蔵(とくら)へ通じる道の先をすぐ左折し、坂道を登り、仏頂山に向って右折して降りると、山門が見えます。ここが楞厳寺です。切妻造りの茅屋ぶきで重量感あふれる室町時代中期の質素な山門です。国指定重要文化財で、市内の山門では最古のものです。

また、この山あいは、県指定の自然公園の中にあって、特にここは姫春蝉(ひめはるぜみ)の発生地としては、太平洋側の分布北限で、弘法大師(こうぼうだいし)と徳蔵姫の伝説をもつ蝉として愛護してきた経緯から、国の天然記念物に指定されています。

この山門から先に笠間氏累代墓地があります。鎌倉時代初代領主時朝(ときとも)は、この寺を菩提寺(ぼだいじ)として以来、笠間18代綱家の時、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原参陣にあたり、本家宇都宮氏の命にそむき、この片庭古山の戦で敗れ笠間氏は滅亡しました。この地には多くの五輪塔が埋没していて、昭和9年(1934)郷土史研究会の笠間義士会の手によって整地され、昭和53年に市指定史跡となりました。

寺は、山すその石段を登った平坦な地にあります。ここには、奥の院とよばれた観音堂が正面にあり、ここに鎌倉時代笠間時朝の 寄進仏千手観音があります。何度かの火災にも残った建造物で、長い間仮本堂でもあった貴重なお堂です。

国指定重要文化財である千手観音は、同時代の不動明王、毘沙門天と共に収蔵庫に納められ、さらに太子堂に虚空蔵尊(こくぞうそん)、本堂には、市指定の南北朝期の大日如来ほか鎌倉期の薬師如来(と釈迦如来、室町期の地蔵や達磨大師(だるまだいし)等、多くの仏像を有する寺でもあります。

なお、市内の時朝寄進仏は、来栖の岩谷寺、石寺の弥勒堂(みろくどう)にもあり、毎年4月8日の花まつりには公開されています。その他の拝観には、事前に市教育委員会を通して寺々の承諾が必要です。

四季を通して豊かな自然につつまれ、多くの文化財をもつ寺々を楽しみながら訪ねることをお勧めします。

(平成24年2月 能島 清光)

4楞厳寺
薬師如来 大日如来 釈迦如来
(本堂所蔵)

5.里見氏の小原城本丸跡

小原城跡は、友部駅から北東に約2キロメートル、小原地区のほぼ中央のわずかに突き出した小台地に位置しています。道路脇に、「小原館(おばらたて)・古宿(ふるじゅく)」の地名表示があり、このあたりが小原城の本丸跡です。

現在、本丸跡は一部、稲荷神社の境内になっています。宝暦(ほうれき)13年(1763)に、御城(みじょう)稲荷神社が祀られました。神社の南側には、館古宿公民館が建てられ、広場も造られて地域の人たちの憩いの場になっています。

小原城本丸跡は、昭和57年に友部町文化財に指定され、現在市指定文化財(史跡)です。

本丸の土塁は、稲荷神社の社殿の北側および東側にL字型に残っています。土塁の外側に水堀の遺構がありましたが、平成3年に環境整備上埋め立てられ、平らな土地になりました。

本丸の更に外側に、土塁と堀割(ほりわり)の一部が残っており、館・古宿・精進場(しょうじんば)・搦(からめ)・本内(もとうち)・久保宿(くぼじゅく)などの地名を残しています。

小原城の歴史は、永享元年(1429)に手綱郷(てつなごう)(現高萩市)の地頭里見家基(いえもと)が、依上(よりかみ)城(現大子町)攻めの功により、鎌倉公方足利持氏より那珂西郡(小原を含む)の地を与えられ、弟の満致(みつとし)(俊)を小原に置いてこの 地を治めさせました。

里見氏が小原の地に入った当初の館は明らかではありません。「住吉山廣慶寺縁起」(曹洞宗)によると、文亀2年(1502)に同寺は小原城主里見義俊(よしとし)を開基として創建されたとあります。このことから、遅くとも15世紀末には、現在地に小原城が築かれたと考えられます。

里見氏は、戦国末期の天正年間(1573~92)に佐竹氏に敗れて、城も廃城となりました。

本丸跡にある「小原城推定図」を頼りに、現存する土塁や堀跡を確認したり、寺や神社を訪ねてみたりすると、小原の里の歴史を肌で感じることでしょう。

(平成24年4月 幾浦 忠男)

5小原城
小原城本丸土塁と水堀跡

6.館岸城跡とその周辺の歴史

館岸城跡(たてぎしじょうあと)のある岩間上郷地区は、国道355号西側に広がる田園地帯で、西端に難台山、北側に館岸山を背負い、穏やかな里山の原風景を残す貴重な地区です。春は梅や山桜が咲き誇り、夏は田圃の緑やホタルの飛翔、秋から冬にかけて民家の庭先には柿の実や柚子、温州ミカン、リンゴと豊かな実りが生活に溶け込んでいます。

この北側に256mの館岸山があり、その南斜面を利用して館岸城跡はあります。南北朝時代の常陸における最後の戦いといわれる小山義政の乱(難台山合戦)で上杉方が陣を張った拠点と伝えられてきた所です。現存する遺構は、曲輪(くるわ)が一線で造られた単純な一線防御の特徴を持ち、土塁の出口を塞いだ池のような水の手、敵を待ち構えて侵入を防ぐ堀障子(ほりしょうじ)などが残っています。残念なことに南北朝時代まで遡ることができず、戦国末期の遺構と判断されていますが、これだけ山城としての形態が残っているのも珍しく、貴重な遺跡として特に保存が重視されてきました。地主さん方々にご協力を頂いて、今年3月に市指定の文化財となりました。

この館岸城跡に登るには、何本かの道があるのですが、地元の人達のご好意によりハイキングコースが整備されています。尾根を伝わり館岸山の南斜面に降りられ、花園(はなぞの)、大久保、西寺地区と一回りすることができます。裾には、西寺廃寺跡もあり、笠間市最古の円面硯(えんめんけん)(市指定文化財)や国分寺瓦など多数出土しています。また、300m南には羽梨山(はなしやま)神社(式内社)や奈良時代の創建と伝わる普賢院(ふげんいん)、1キロメートルほど東へ戻ると平安時代創建と伝わる安国寺(あんこくじ)など、遺跡が点在しています。

是非ゆっくり歩いてみてはいかがでしょうか。古代から中世にかけてのこの地区の栄華を彷彿させる光景に心を奪われることでしょう。

(平成24年6月 川崎 史子)

 

6舘岸城
舘岸山

7.延喜式内社の稲田神社

国道50号を笠間市街より西へ進み稲田地区に入ると、歩道橋手前の右手に稲田神社の大鳥居が見えてきます。大鳥居を潜り、参道奥の石段を登ると社殿が現れます。明治6年、村内の五社を合祀(ごうし)して現在の社名に変わり郷社(ごうしゃ)に指定され、同16年に県社に昇格しました。元の神社名は稲田姫神社で、『古事記』の「八岐(やまた)の大蛇(おろち)」の話で知られる奇稲田姫(くしいなだひめ)を祭神として祀った神社です。その歴史を見てみましょう。

国道50号沿いの、西は鬼怒川東岸から東は旧笠間市域の地は、古くには新治郡と呼ばれました。平安時代の延長5年(927)醍醐天皇の世に、当時の法律を補った『延喜式(えんぎしき)』が完成しました。その中の全国の主な神社を登録した「神名帳(じんみょうちょう)」という記録に、稲田姫神社が「名神大(みょうじんだい)」とあります。名神大とは「国になにか事変が起こった時、それが鎮まることを祈願する儀式を行う神社」 のことで、由緒のある大社をさします。

鎌倉時代、稲田姫神社は一七町歩の土地(神田)を所有し、同社の一の鳥居が本戸地区の南指(なじ)原(わら)地内にありました。その名残が神田・鳥居松の小字名で現存しています。笠間の初代城主笠間(藤原)時朝は、6代将軍宗尊親王(むねたかしんのう)の歌道師範であった藤原光俊や本家筋の宇都宮家の人々などを笠間へ招き、同神社で歌会を催しています。

戦国時代、同神社は戦乱にて衰えました。

江戸時代には、笠間藩主や水戸藩第2代藩主徳川光圀の手厚い保護をうけました。光圀が江戸へ上る途中に同社を参詣した際、由緒ある同社の余りの荒れ様に驚き、再興に力を貸しました。神官田村善太夫を江戸へ同行して教育し、四方の神々を意味し、儀式に用いる4本の旗「 四神旗(しじんき)」(茨城県指定文化財)等を奉納しました。笠間藩主の井上正利は土地を寄進、牧野氏は幕末に類焼した同社の再建時に金30両を援助しました。このような歴史のある神社です。

(平成24年8月 矢口 圭二)

 

7稲田神社
稲田神社の社殿

8.笠間藩校の時習館跡

 笠間小学校の正門近くに高さ約2.8mの大きな石碑があります。これは笠間藩の学校であった「時習館記」の碑で、教育理念と藩校の創設、その後の経過が漢文体で刻まれています。

館記の文は牧野笠間藩主八12代の牧野貞直が、水戸藩の学者会沢正志齋に依頼して撰文しました。実は笠間藩の儒学者加藤桜老が原文を作成し、師である正志齋が監修したといわれ、安政6年(1859)に出来上がりました。その時に、碑は建立されず、60年後の大正5年(1916)に時習館の跡地(小学校内)に建てられました。

時習館は、笠間藩主牧野貞喜(さだはる)が文化14年(1817)に藩政改革の一環で、武士の子弟の学校として創設しました。笠間藩の儒学者秋元浚郊(しゅんこう)の「欽古塾(きんこじゅく)」を藩校「時習館」としました。

6年後の文政6年(1823)には新たに館舎を建て、教育の基本方針を制定しました。その場所は現在の桜町の一角で、五差路信号の南側に位置します。ここでは37年間笠間藩士の子弟を教育しました。長州(山口県)の吉田松陰(しょういん)も立ち寄って講義をしたことがあります。

安政6年に、笠間小学校の地に再び館舎を建てました。これまで別々にあった時習館(文館)と博采館(はくさいかん)(医学館)及び講武館(武術館)を統合して総合の藩校「時習館」にしたのです。現在の小学校の大銀杏辺りまでが敷地でした。今階段のある門のところを正門に、敷地の南半分に文学と医学、講堂、武術の館舎を建てました。また、北半分(校舎の所)は砲術、弓術、馬術の稽古場で訓練の場でした。

牧野貞喜が時習館創設の際、「日新」を館訓にしました。日に日に自己実現をめざすようにとの指針です。当時の生徒の強い意気込みが感じられます。今日の私達の暮らしでも通じる道しるべだと思います。

(平成24年10月 小室 昭)

 

8時習館
時習館の記

9.湯崎城跡

湯崎城跡は、笠間市湯崎字館内の涸沼川と桜川の合流点に向かって突出した台地に位置しています。南北朝時代の康永3年(興国5年、1344)に、宍戸安芸守(ししどあきのかみ)朝里(ともさと)(朝重(ともしげ))によって築かれたと伝えられています。宍戸城を守る東南方面の備えとして築城されたものです。また、朝里は教住寺(時宗)の開基となっています。

文明13年(1481)、水戸城の江戸通長(えどみちなが)が、常陸南部に進出を企て、涸沼川南岸の小幡地方(茨城町)を攻撃してきました。小幡城の小幡氏(小田一族)は、同族の宍戸氏や笠間氏・大掾(だいじょう)氏に援軍を要請し、江戸氏に対抗しました。

同年5月5日、小幡・宍戸・笠間等の連合軍と江戸軍が、小鶴原(茨城町)にて激突しました。連合軍三千余騎は、湯崎城に集結し、宍戸持久(もちひさ)が軍代を勤め、小鶴原に進出しました。この合戦で、小幡・宍戸等の連合軍は80名、江戸軍は60名の戦死者が出ました。江戸勢は水戸に退きました。

その後、常陸国では、佐竹氏の勢力が強大となり、豊臣秀吉と結び、常陸国を統一し、54万石の大守(たいしゅ)となりました。宍戸氏は海老ヶ島(筑西市)に移されてしまいました。関ヶ原の戦いの後、佐竹氏は出羽国(秋田)に転封となり、湯崎城は廃城となりました。

湯崎城跡の現状は、大部分が栗畑で、本郭(主郭)跡とみられる北側に土塁・空堀が残っています。南側は崖で自然の要害となり、さらに麓を流れる涸沼川が天然の濠となっていました。本郭跡・空堀・土塁・櫓台等が残り、中世城郭の跡をよくとどめています。

なお、宍戸安芸守持久(もちひさ)は、享徳元年(1452)に、湯崎住吉入会の鈴明神(すずみょうじん)(二所神社)を修築しています。さらに、文明12年(1480)に、大田町の養福寺の再建にあたり、旦那として二王(仁王像)・宮殿造立に7貫文の銭を寄進しています。

(平成24年12月 南 秀利)

9湯崎城
湯崎城跡

10.土浦藩―岩間陣屋跡

岩間上郷・下郷・泉村の3か村は、明暦3年(1657)に旗本土屋数直(つちやかずなお)の領地となり、翌万治元年(1658)に陣屋が置かれたとされています。

文政10年(1827)の「常州茨城郡泉邑(じょうしゅういばらきぐんいずみむら)愛宕山繪圖(あたごさんえず)並道程附(ならびにどうていつき)」(下段図参照)によると、岩間陣屋は岩間下郷の南端に存在しました。府中(現石岡市)から笠間への街道(現国道355号)に面して八幡さま(現六所神社)への参道の北側に位置します。

屋敷面積は1町歩(1ヘクタール)ほどで、街道から入ると高札(こうさつ)が立ち、その両側に土塀と土塁に続いて長屋門がありました。ここを通ると白壁に囲まれた役所が置かれ、正面には玄関の式台が、右手には井戸がありました。入母屋造りの母屋の両側には、付属する建物が2棟ずつ並んでいました。庭には物置や土蔵が3棟あり、これらは瓦葺きの建造物です。中庭には築山が築かれ、奥の木立の中に小さな祠(ほこら)が3つあったとされています。周囲は竹垣で囲まれ、参道側に裏門があり、屋敷内には2反歩ほどの菜園が広がり、陣屋の役人が栽培していたと伝えられています。

同じ土浦藩の陣屋がおかれていた北条や小田(つくば市)の陣屋と比べると規模が大きく、建物・部屋数共に倍以上であったといわれています。

岩間陣屋は「岩間役所」とも呼ばれ、岩間領の農民の訴状や願書を受け付け、代官は他の城付領よりも大きな権限を持っていました。

陣屋には、代官と役人の6人が常駐していて、岩間領の年貢徴収、勧農、治安維持のために常に巡回していました。

享保以来、何回かの行政改革を繰り返し、土浦への権力集中と陣屋の権限縮小・人員整理を進め、北条や小田の代官は土浦へ引き上げとなりましたが、岩間陣屋だけには残りました。

(平成25年2月 松嶋 繁)


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電話番号:0296-77-1101 ファクス番号:0296-71-3220

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