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文化・歴史

笠間の歴史探訪(vol.21~30)

21.箱田の滝野不動堂

国道50号の石井交差点から宇都宮方面へ向かう県道1号線を進み、間もなく左手の山麓に堂が見えます。左折して片庭川を渡ると「市指定文化財・滝野不動堂」の石柱があります。

ここは箱田の南端に位置し、堂のある一帯は、石灰岩の露出した岩場で、堂の土台や背後まで続いています。

不動堂は北向きに建ち、2間4方の方形造りで、3面を回廊が廻り、北側の足場は片庭川に掛けられて懸崖造(けんがいづく)りです。屋根は宝珠を乗せた綱瓦葺き、軒は二重垂木(たるき)で二手目には獏(ばく)の木鼻(きばな)、背面隅には鳥鼻、柱頭は獅子鼻が飾られ多様な装飾が施されています。

不動堂の本尊は木造不動明王ですが、『聚成(しゅうせい)笠間誌』によると、平安時代に平将門を調伏のため仏を迎えたとあります。また、伝承では弘法大師が大きな屏風岩に不動尊の姿を爪で描いたといわれています。江戸時代は山伏(やまぶし)修験者(しゅげんじゃ)の祈祷所でした。

現在の堂は享保11年(1726)に笠間城下町の滝野氏が寄進して再興したので「滝野不動堂」と呼ばれていると伝えられています。また、境内の岩から滝泉が流れていたので「滝の不動」という説もあります。建築を担当したのは、箱田に在住していた宮大工棟梁の2代目藤田孫平治常長です。この堂は屋根の改修を除けば、木の目を生かし、多くの動物を施した木鼻、内部をくりぬいた篭彫(かごぼ)りの飾りなど、江戸時代中期の建築様式の大部分が残されているので、平成9年(1997)に市の文化財に指定されました。

堂の側面には多くの絵馬や鉄剣、木刀、さらに千羽鶴、祈祷額が奉納されています。昭和前期までは出征兵士の武運長久、戦後は安産や育児、商売繁盛を祈願する仏として多くの人々が訪れていました。

(平成26年12月 小室 昭)

 

『21滝の不動堂』の画像
滝野不動堂(箱田)

 

22.八田知家・宍戸家政供養の五輪石塔

五輪石塔は、平町の宍戸清則家の墓地内にあります。ここにはかつて、鎌倉時代の宍戸氏の山尾館と新善光寺がありました。涸沼川を望む高台で、道場淵と呼ばれています。

宍戸氏の初代家政(いえまさ)は、常陸国守護八田知家(はったともいえ)の4男で、史料には宍戸四郎や筑後四郎兵衛(ちくごしろうべえ)という名が記されています。建久4年(1193)5月、家政は将軍源頼朝の富士野巻狩(ふじのまきがり)に供奉(ぐふ)し、初めて源氏の祖六孫王(りくそんのう)経基(つねもと)の六字の紋(州浜紋(すはまもん))の旗を掲げました。

巻狩の最中、曽我兄弟が父の仇、工藤佑経(すけつね)を討ちましたが、将軍暗殺の疑いで殺害されてしまいました。この事件は、常陸国の武士団に思わぬ波紋を投げかけ、多気(たけ)氏が没落し、宍戸氏が小鶴荘に進出するきっかけとなりました。

家政が小鶴荘山野宇郷(やまのうごう)に館を築いたのは、建仁3年(1203)と伝えられ、山尾館とか宍戸城と呼ばれました。ここに家政の弟七郎朝勝(解意阿弥陀観鏡(げいあみだかんきょう))がお堂を建て、善光寺式阿弥陀三尊像を安置しました。このお堂が後の新善光寺です。

家政は、建保元年(1213)5月、和田義盛(よしもり)(侍所別当)の乱に北条氏(幕府)方に立って参戦し、鎌倉の琵琶(びわ)橋で和田軍の兵、朝比名(あさひな)三郎義秀と切りあい、討ち死してしまいました。

五輪石塔は、江戸中期の明和6年(1769)、宍戸氏の子孫一木(ひとき)氏が先祖の八田知家と宍戸家政の供養のために作りました。一木氏の祖は、宍戸朝里(ともさと)の四男基里(もとさと)で、難台山の戦い(小山犬若丸と小田五郎の乱)の褒賞として、武蔵国一木郷(東京都港区赤坂)を与えられ、一木姓を名乗りました。

新善光寺は、江戸中期に無住となり廃寺となりました。本尊の善光寺式阿弥陀三尊像は、教住寺に伝えられ、五輪石塔とともに、笠間市の文化財に指定されています。 

(平成27年2月 南 秀利)

『22五輪石塔』の画像
五輪石塔(宍戸家墓地)

 

23.大綱の別雷神社境内の句碑

岩間駅から西北へ約1キロメートル下郷大網(だいあみ)地区に、別雷(わけいかずち)神社があります。社殿は小さく、平成24年に改築した木造入母屋造りです。

祭神は別雷(いかずちの)命(みこと)といって、大山咋命(おおやまくひのみこと)と玉依(より)姫(ひめの)命(みこと)との間に誕生した神です。伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)の神の曾孫にあたります。本社は、通称上(かみ)賀茂(かも)神社と呼ばれる京都の賀茂別雷神社です。京都の三大祭りのひとつ、葵祭は別雷の渡御の祭りです。

岩間大網の別雷神社は、江戸時代の中頃に五穀豊穣・子孫繁栄・家内安全を願って、農耕神である京都上賀茂神社の祭神を勧請したと伝えられています。

この社殿の脇に句碑があります。地元大網出身の小松崎(こまつざき)爽青(そうせい)の句碑で、丸みをおびた石です。


雀にも訛がありて暖かし
爽青


と刻してあり、心温まる句です。

爽青(本名・武男)は、大正4年(1915)旧岩間町下郷大網に生まれ、昭和7年(1932)東京成城中学校を卒業、大竹孤悠主宰の結社「かびれ」に入会しました。

日立製作所に就職し、勤務の傍ら句誌「かびれ」の編集に携わりましたが、戦時期には召集されて陸軍に入隊、終戦後は同社に復職し「かびれ」を復刊しました。後に句誌「かびれ」の主宰を継承し、多くの門人を育てました。

ところで、「かびれ」とは余り聞き慣れない言葉ですが、「かびれ」という名の神社があります。日立市の御岩(おいわ)神社境内の賀毘禮(かびれ)神宮です。

今から凡そ1300年前に編まれた『常陸国風土記』では、「久慈の郡(こおり)、薩都(さと)の里」の記事に、「初め神は里にいたが、神の祟(たた)りが非常に厳しいものだった為に、人々の願いで神が清く高い山『賀毘禮の高峰』に移り住んだ」と記されています。しかしこの「高峰」が御岩山とされ、麓には御岩神社があり、頂上付近に「賀毘禮神宮」の額を掲げた社があります。

句誌の名「かびれ」は、この賀毘禮からとったものと思われます。

御岩神社の境内にも小松崎爽青の句碑が一基あります。

月の夜の石にかえりし道祖神

と刻された句碑です。

いずれの句もほのぼのとした味わいのあるもので、詠者の人柄が偲ばれます。

地元の里人でなければ、訪れることもないような、小さな神社の境内にある句碑、すごい宝物を発見したような得した気分になりました。

(平成27年4月 松本 兼房)

『23句碑』の画像
別雷神社の句碑

24.旧石器時代の遺跡―小組遺跡―

旧石器時代は、現在の日本列島の姿がほぼ形成される以前の寒冷期と温暖期がくりかえされた時代で、今から約1万年前です。この時代の遺跡が、笠間市上加賀田の小組(こぐみ)遺跡です。涸沼川右岸の緩傾斜面に8カ所並ぶように石器集中地点が検出されました。茨城県教育財団調査課によって、北関東自動車道建設に伴い平成14年度と同16年度の2度、調査されました。出土した石器の総数は2,155点と、県内屈指の出土量でした。

しかも主たる石材が水晶でした。それまで発見されていたこの時代の石器が、黒曜石、頁岩(けつがん)、メノウ、チャート、安山岩などであったことをみると、全国的に珍しいことから、文化庁の「発掘された日本列島 2007 ―新発見考古速報―」と題する展示会で、平成19年から20年に亘り、全国各地で紹介されました。

特に、石器製作に不向きな水晶が、なぜ素材に選ばれたのかということが注目されました。この遺跡から出土する水晶をみると、角が取れて丸いことから、遺跡近くの河原から拾い集めていたと考えられます。しかし、確かな水晶出土地は今のところ不明です。このように素材として入手しやすかったこと以外に、水晶の透明感のある輝きに笠間の旧石器人が興味を持ったことを考えると、貴重な遺跡だといえましょう。

(平成27年6月 能島 清光)

『24水晶石器』の画像
小組遺跡の水晶石器
(笠間市立歴史民俗資料館)



25.学童疎開を伝える標柱と記念植樹のコウヤマキ

宍戸大田町の唯信寺境内に、学童疎開関係者来訪記念の標柱と記念植樹のコウヤマキがあります。
太平洋戦争末期の昭和19年(1944)6月、政府は都市の学童を地方へ一時的に移住させる「学童疎開促進要綱」及び「帝都学童集団疎開実施要領」を決定しました。集団疎開は各地に割り当てられ、当地方では笠間の旅館・稲田の旅館や寺院・宍戸や岩間の寺院が宿泊場所になりました。宍戸には同年7月、向島区(現隅田区)第一寺島国民学校の3年生から6年生計123人と教職員が、2つの寺に分宿することになりました。唯信寺に77人、養福寺に46人で、引率の先生や寮母が児童の教育や世話にあたりました。
唯信寺に疎開した学童の一人は、次のように回想しています。

お寺に到着したその晩の食事は、大きなおむすびが二個でした。古いお寺の大きな本堂で寝床に落ち着きますと、天井ばかりが高くてみょな気もちに襲われ親が恋しくなり始めました。お寺から少し離れたところを、私たちを東京から運んだ汽車が走っていました。ときどき通り過ぎるその音を耳にすると、今朝出てきたばかりの東京の家が思い出され、郷愁はつのるばかりでした。

疎開している児童は、宍戸国民学校へ午後通い授業を受けました。
空襲は、大都市から地方へと拡大し、宍戸にも頻繁に空襲警報が発令されるようになりました。昭和20年2月17日、唯信寺はアメリカの戦闘機の爆撃を受け本堂が全焼。児童は、避難して全員無事でした。その日の夜から、近くの円通寺に移りました。その後も空襲が続いたため、同年5月秋田県へ再疎開し終戦を迎えました。
平成3年(1991)2月、学童疎開を経験した方々が団体で来町して町役場を訪問、かつての学び舎宍戸小学校で「母の懐宍戸ふるさと賞」を授与されました。その後、3つの寺を訪れて寺の方々と再会し、各々の寺に記念植樹をしました。おして、訪問を機に「一寺宍戸会」が発足しました。
学童疎開の証となった記念樹は、世の中の平和と明るい生活が続くことを願って、伸び続けています。

(幾浦 忠男)



『唯信寺のコウヤマキ』の画像
記念樹コウヤマキ(唯信寺)

 

26.改修された隠沢観音堂

国道355号線岩間泉から西へ二キロメートル、仲村地内に嶽南山慈眼院清滝寺(通称・隠沢観音堂)があります。堂内に十一面観世音像(市指定文化財)を有し、ひっそりと佇んでいます。平成二十四年大嵐の夜、裏山から大木が倒れて堂を直撃し、屋根が大きく損壊しました。幸い堂内の十一面観世音像は無事でしたが、雨風にさらされてはと、堂の管理をしている手越の東性寺に預けられました。空になった堂は市の指定を解除され、訪れる人もなく寂しい姿となり、それを憂いた東性寺は、修理に取り掛かりました。屋根や内装も、立派な厨子とともに修理しました。

昨年7月、修理が完了し、十一面観世音像を戻した堂で、「改修記念開帳法要」が近隣住民とともに行われました。長い間無住状態が続いていた堂の再建に地域の人たちは大変喜び、「私たちの手で守っていこう」と誓いました。今年の七月もまた、御開帳法要を行い、少しずつ昔の姿を取り戻しつつあります。

そもそもこの隠沢観音は養老四年(720)に創建され、当時は裏山の嶽南山堂平にあったといわれます。それを、土浦藩領時代、藩主土屋政直が、延宝元年(1673)現在の地に移して改築しました。本堂、楼門、黒門を整備して延宝九年(1681)に完成し、土浦藩の祈願所として、石高10石が寄進され、保護されてきました。

 隠沢観音は大正・昭和の時代まで安産祈願の守り神として大変盛んになりました。毎月十日が観音様の縁日で、早い時間にお参りに行くのがよいとされていたため、遠方から熱心な信者が集まり、堂内では御祈祷が行われました。
「四万五千日お参りしたのと同じご利益がある」と近隣の町村や県外からも講中の信者がこぞって訪れました。

 最近、山根北地区の子安講中の方々から、昔から使われてきた子授け・安産・子育て祈願の掛け軸と講中名簿・古銭(紐でつないだ賽銭)など数十点が笠間市に寄贈されました。今でも地区の繁栄と子どもの無事を願って集う子安講の姿は、ほのぼのと私たちの心を和ませてくれます。この穏やかな営みも、隠沢観音あっての御利益でしょうか。一度訪れてみてはいかがですか。

                           (川﨑 史子)
『隠沢観音堂』の画像

(隠沢観音像)

27.玄勝院の亀井有斐の墓碑

 笠間小学校北の枡形の信号を東へ折れ、笠間日動美術館前を経て佐白山麓公園入口を過ぎた先が曹洞宗玄勝院前です。山門をくぐり右手の緩やかな坂道を上り詰めた所に広がる左手の墓碑群の一画に、見事な隷書体で刻まれた亀井有斐と袖子夫人の墓碑が立っています。有斐は幕末から明治三十年代に、笠間の書の世界で令名を馳せた人物です。

 文政九年(1826)六月、有斐は水戸・城東で米殻商と搾油業を営む栗田雅文の二男として生まれました。実名を直、通称を享二郎といい、雅号を有斐・竹堂・桂城そして書癡山人を名乗ります。商業ながら、父雅文・長兄共徳共に漢字や日本の古典に造詣が深く、書を嗜み流麗な作品を残しています。有斐の弟寛は水戸藩彰考館総裁豊田天功に学び、認められて同館に入り、二代藩主徳川光圀が着手した『大日本史』編さん事業の完成に情熱を注ぎました。最終的に寛の死後、養子勤(有斐の三男)が完成させています。

寛は明治政府に出仕、明治二十五年(1892)に東京帝国大学文科大学(現在の東京大学)国史学科の教授に就任、死の直前に文学博士号を授与されました。嘉永四年(1851)、有斐は笠間城下、大町下の亀井時行家(笹屋)の養子となります。当時、亀井家は現在の常陽銀行笠間支店の位置で呉服商を営み、江戸・日本橋の三井八郎右衛門家とも取引をし、笠間城下の五か町の町役人を務めていました。亀井家の家業を継承した有斐は、明治二十八年、六十五歳で家業を退き、冨士山への道筋に沿った隠居所で書三昧の晩年を過ごし、同37年6月1日、79歳で亡くなりました。

 有斐は、楷書・行書・草書・隷書のいずれの書体にも通じていたといわれています。弟栗田寛博士が「仲兄(有斐のこと)書ヲ善クス・尤モ八分ニ長ジ、名声戸遠近ニ譟シ」と語るように、有斐はとりわけ隷書体の中の八分隷という書体を得意としました。77歳の喜寿を機して亀井家の善提寺玄勝院に建立した墓碑銘が、八分隷の書体を知るのに最適です。日の表面に、自分の歩みを略述しています。他にも有斐の書になる碑が各地に建てられています。

                                          (矢口 圭二) 
『亀井有斐の墓碑』の画像

亀井有斐の墓碑(玄勝院)

28.笠間城跡

標高205メートルの佐白山は、笠間城があったので「お城山」とも呼ばれています。笠間城は、江戸時代全国でも数少ない山城の一つです。近世の初め、笠間城主であった蒲生郷成が、出身地の近江国(滋賀県)の石材技術をもつ石工らを用い、近世笠間城の骨格を形成しました。最も顕著な遺構は、山頂一帯の天守曲輪の石垣や石段で、山中の露出する岩石を割り、急斜面の山腹から運びだして築き上げたものです。

ここには江戸時代二層の天守がそびえていました。山頂には古代から神社がられていましたが、鎌倉時代にによって山麓に移されました。佐志能神社は、明治五年(1872)山頂に復帰し、その拝殿は笠間城の天守櫓を改造したものといわれています。

 山頂から下がった本丸には、東櫓門跡、八幡櫓跡、宍ヶ櫓跡、玄関門跡の礎石の一部が残されています。この本丸と天守曲輪は、笠間市指定文化財(史跡)に指定されています。また、八幡台櫓は、廃城後に城下の日蓮宗浄寺に移築され、七面堂として復活し、昭和四十四年(1969)に笠間城櫓として茨城県指定文化財となりました(笠間の歴史探訪15参照)。

 本丸、天守曲輪以外の城郭跡は現在指定文化財になっていないものの、玄関門下の石垣と石段、二の曲輪、帯曲輪と玉滴の井、三の曲輪と大手門跡や空堀、千人溜などの遺構を見ることができます。
山の地形を利用して築城された笠間城は、東・南・西側の三面は急斜面で戦いの防御は容易です。北面はゆるやかな山地が続き防御の弱点で、この面に曲輪、土塁と堀、石垣、大手門、千人溜を拝する梯郭式の構造で、専守防衛型の城です。

東日本大震災により、天守曲輪の石垣が一部崩落しましたが、現在は仮復旧を行い、修復にさまざまな調査を行っております。今後、当時の笠間城の姿が解明されることが、期待されます。なお、天守曲輪の東側は「石倉」と称する巨岩が重なり、ここから遠く水戸、太平洋を望む名勝地です。さらに、佐白さん一帯は笠間県立自然公園にも指定され、自然が保護された山中は植物の宝庫でもあります。

                         (市史研究員  
『笠間城天守曲輪』の画像

 天守曲輪の石垣(崩落前)

29.小原広慶寺の里見義俊の墓

小原の住吉山小原院広慶寺は、小原城主里見義俊が、曹洞宗の養堂禅師の道風を慕って開きました。里見氏の先祖は、清和源氏新田氏の分流で、新田義重の次男義俊が、上州碓氷里見郷(群馬県)を所領として里見を姓としました。里見氏は、室町時代に鎌倉府の奉公となり、高萩のや宍戸荘の多利(小原地方)を領有していました。永享七年(一四三五)に常陸国の財産家を書き出した「常陸国中人数注文」に「里見四郎宍戸内志多利郷知行」と記されています。「南総里見八犬伝」の房総の里見氏も同族です。

「広慶寺縁起」には、「文亀二年(1502)正月28日小原城主里見七郎開祖養堂禅師道風建寺字好田十五貫ヲ付シ共ニツ」と書かれています。また、養福寺仁王像の胎内に納められていた墨書紙片に「文明十二年(1480)2月9日大旦那常陸源家、同子息二郎三郎里景豊王里元」とあります。
小原地方を支配していた里見氏の居館跡は、小原香取神社の東側台地、呂輪神社後方の小屋越の台地、そして小原字館等があげられています。里見氏が小原を領有して七十年ほど経た文亀の頃、義俊が小原城を築いたとする説があります。そのころ広慶寺も建立されました。

広慶寺には、笠間市指定文化財の「」「高寺二号墳」があります。「涅槃図」は、江戸初期に描かれたもので正保年間(1644~1647)、天保年間(1830~1843)に修理が施されています。毎年2月15日のお釈迦さまの命日に公開されます。
高寺二号墳は、直径18m、高さ5・6mほどの円墳で、昭和50年に発掘調査が行われ、出土品(直刀・銀耳環・管玉等)は旧友部町の指定文化財第一号となりました。

義俊の墓は、広慶寺墓地のほぼ中央にあり、石塔に「小原院雄山長英大居士」霊位と彫られています。雄山長英の名は、広慶寺の梵鐘にも刻まれていました。この梵鐘は戦時中軍に供出され、現在の鐘は二代目で、毎朝六時(夏は五時)に撞かれ、時を知らせてくれます。広慶寺の近くには、小原神社・保呂輪神社・諏訪古墳・山王塚古墳等の一本松古墳群・小原城跡などがあり、散策に絶好のコースです。

(市史研究員 南 秀利)

『里見家の墓地』の画像

 里見家の墓地(広慶寺)

30.高龗神社

岩間街道の淡島神社(土師)から北へ入ること約300mの杉林の中に高龗神社が鎮坐します。
同社の創建年は不詳。明治初年高龗神社と改称しましたが、以前は八龍神社と呼ばれていました。祭神は、高龗闇龗
です。この両神は『古事記』にある神話の雨の神で、の神とされています。

伊邪那伊邪那の夫婦の神は多くの神々を生みましたが、最後に生んだのが火之迦具土神という火の神です。そのために伊邪那美神は火傷し、それがもとで亡くなりました。伊邪那岐は、伊邪那美の死因となった火の神・迦具土神の首をねてしまいました。そのときに剣の柄に集った血が、手の指の股から漏れ出て生れたのが、闇淤加美御津羽の二神です。闇淤加美は、古来より雨を司る竜神としての信仰があります。

この両神は、水の調節を自在に操り、葦原瑞穂國の穀物を豊かに実らせる営みをなす神で、国土繁栄のもとをなしていると言われています。
また『万葉集巻二』の天武天皇夫人藤原五百重娘の歌にも「可美」がみえます。

天武天皇から藤原夫人へ賜った歌
我が里に大雪降れり大原の
りにし里に降らまくは  

 

(私の居る里には、大雪が降っている。お前の居る大原の古い里に降るのは、その後のこと。悔しいだろうね)の意味です。

 藤原五百重娘が答えた歌

我が岡の()に言いて、降らしめし
雪のし、其処に散りけむ

(いいえ。私の居る大原の岡の龗に言って、降らせた雪のくだけたかけらが、そちらに降ったのでしょう。)

と、お互いにかけあいで詠んだ和歌です。
「おかみ」は種々の書物に記されており、昔から水神・竜神として広まっていた信仰なのだと分ります。
地元の古老などは、八龍神社と呼んでいたことから、農作業に欠かせない水の恵みを祈ったのでしょうか。

(市史研究員 松本 兼房)

『高龗神社』の画像

高龗神社  


「笠間の歴史探訪」vol.11~vol.20                

「笠間の歴史探訪」vol.31~

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