笠間の歴史探訪(vol.51~60)
51. 筑波海軍航空隊跡 神風特攻で73名散華
笠間市旭町地内にある県立こころの医療センターは、戦前、筑波海軍航空隊のあったところです。昭和9年(1934)8月、霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊として設置され、戦闘機の搭乗員養成の基地でした。三式初練や九三式陸上中間練習機(赤トンボ)での飛行訓練が行われていました。同11年からは、若い予科練習生が入隊し、猛訓練が続きました。
昭和12年7月、日中戦争が勃発すると、航空機の重要性が高まり、分遣隊から独立して筑波海軍航空隊になりました。この時、司令部庁舎が建築されました。
昭和16年12月、太平洋戦争が始まると訓練も激しさを増していきました。「鬼の筑波か地獄の谷田部」と言われるほどの猛訓練でした。訓練は、一期50名で6カ月、教官1名が3、4名を指導しました。訓練を修了した兵士は激戦地に派遣され、その多くが東南アジア各地で戦死しました。
昭和19年3月から、零戦配備の実践部隊となりました。同年秋には、フィリピン戦に神風特別攻撃戦法が採られ、筑波海軍航空隊からも25名が特攻要員に選ばれ、13名がフィリピンの海に散華しました。
昭和20年になると、戦局は激しさを増し、2月には神風特別攻撃筑波隊が組織され、特攻訓練の命令が出されました。64名の特攻要員が選ばれ(後に84名)、急降下などの訓練が行われました。
筑波隊は、鹿児島県鹿屋基地に進出し、4月6日に、第一筑波隊17名が沖縄近海に特攻をかけました。6月22日まで60名が散華しました。その大半は、大学を繰り上げ卒業して海軍に応募した飛行予備学生でした。
昭和から平成の世になって、かつての筑波海軍航空隊員、遺族の間から慰霊碑建立の声が上がり、「筑波海軍航空隊ここにありき」碑が建立されました。平成11年(1999)6月3日に除幕式が挙行され、150名が参列しました。慰霊碑には、「万感の愛惜をこめてその鎮魂を祈り且は恒久の平和を念じてこの碑を建てる」と記しています。
なお、筑波海軍航空隊司令部庁舎は、平成30年(2018)12月、笠間市の文化財に指定されました。
(市史研究員 南秀利)
筑波海軍航空隊司令部庁舎 |
慰霊碑 |
52. 小田五郎挙兵 難台城址追弔碑について
難台山中腹に「小田五郎挙兵難台城址追弔碑」(なんだいじょうしついちょうひ、以下「追弔碑」)という石碑があります。この碑が昭和9年(1934)に建立された経緯について考えてみます。
14世紀後半、常陸国南部の小田氏の一族小田五郎藤綱(ふじつな)が、下野国(栃木県)の小山氏の一族小山若犬丸(わかいぬまる)と盟を結び、南北朝時代末期の嘉慶元年(元中4年・1387)、関東八州を支配する鎌倉公方足利氏満(うじみつ)に背いて挙兵し、難台山に立てこもりました。力戦奮闘の末、翌年5月18日、主将小田五郎は手兵100余名と共に討死し、客将小山若犬丸は再起を図り脱出しました。当時は、北朝の天皇を擁立した足利政権による全国支配がほぼ完成した時期でした。
次に、「追弔碑」が建立された経緯を考えてみると、昭和9年は後醍醐天皇による建武中興(現在は「建武の新政」とよぶ)から数えて600年後に当たり、一部の軍人・神職・歴史家などにより、後醍醐天皇と南朝の忠臣の功績を顕彰する「建武中興600年記念事業」が全国各地において挙行されました。旧岩間町においても、同年3月に南朝の忠臣小田五郎追弔祭が岩間小学校(現岩間第一小学校)にて挙行され、岩間町長はじめ約1,000名が参列しました。
その後、町民の寄付金により小田五郎の「追弔碑」が建てられることになり、高さ4.5m、幅1.8mに余る仙台石に、町長梅里好文揮毫(うめさとこうぶんきごう)による「小田五郎挙兵難台城址追弔碑」という銘が刻まれ、難台山中腹に建立されて現在に至っています。
なお、旧堅倉村(小美玉市)納場の小林虎男氏が難台山麓で拾得して自家に保管していた「小田五郎」と刻まれた墓碑らしき石碑(高さ25cm・幅20cm)も、旧岩間町に寄贈されて、「追弔碑」の傍らの祠の中に格納されています。
また同年5月、笠間市泉にある藤塚と呼ばれる円墳から、後醍醐天皇の側近藤原藤房(ふじふさ)の銘碑が発見されたため、藤房の命日を卜して同年10月10日慰霊祭が挙行されて、翌年藤塚古墳上に「藤原藤房卿遺跡」なる石碑が建立されました。
(市史研究員 萩野谷洋子)
小田五郎追弔碑
53. 笠間・花香町の木造子育地蔵菩薩坐像
笠間市街の昭和町通りすぐ東側を南北に貫く通りが、江戸時代に笠間藩主が参勤交代に利用した道である。その道筋に沿った花香町地内の第十八区集会所東奥の地蔵堂に、この地蔵菩薩坐像は安置されている。かつては隣接する桜台の泉福寺(せんぷくじ)境内の地蔵堂に祀られていた。明治初めの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の潮流の中で同寺が廃寺となり、花香町の人々が譲り受け、町内に地蔵堂を建て守ってきた。平成11年(1999)、神奈川県秦野市在住の仏師小島弘氏により解体修復され、翌年、笠間市の文化財の指定を受けた。
像容は、像高20cm、左の掌に宝珠(ほうじゅ)を載せ、右手に錫杖(しゃくじょう)を持ち、岩座の上に蓮台ごと載る姿である。小島弘師が、私たちの面前で割矧ぎ造りの同像を解体して像内を見せて下さった。胸裏と背裏両部分に墨痕鮮やかな銘文が現れ、その内容に驚かされた。原文は漢文体で、意訳すると次のようになる。胸裏部分には、文明11年(1479)10月19日、笠間馬場郷の瑞竜菴(ずいりゅうあん)にて京都の院派仏師・院永(いんえい)作とあり、京都の住所も記されている。背裏部分に、笠間・馬場郷の住人市毛内匠助(いちげたくみのすけ)藤原朝臣(あそん)家正の一周忌に造立したと、慈母妙浄(じぼみょうじょう)の署名がある。
当時の日本は、応仁元年(1467)から11年余にわたり京都市街を戦場に戦闘が繰り広げられた(応仁の乱)。戦乱は全国に波及、その後の約100年は戦国時代となる。貴族や僧侶の中には都を離れて地方へ避難する者も現れ、中央の文化が地方へ伝播する契機ともなった。水墨画の巨匠雪舟等楊(せっしゅうとうよう)が、現在の山口市へ移り住み京風文化が育まれ、後に同地は「小京都」と呼ばれるようになる。
平安・鎌倉時代以降、仏像彫刻の分野で日本を代表する院派の仏師が、戦乱を避けて来笠し、当地で仏像制作をしていることは注目に値する。さらに、文明7年(1475)8月の笠間城の鎮守・三所神社の棟札写には、城主笠間綱久(つなひさ)による同社の屋根の葺き替え記録がある。その折の普請奉行が市毛内匠助家正とあり、地蔵像の胎内銘文中の市毛家正の存在を裏付けている。
(市史研究員 矢口圭二 )
胸裏部の墨書銘 |
木造子育て地蔵菩薩 |
54. 友部駅昔ものがたり
友部駅は、明治22年(1889)の水戸線開通時には、まだ設置されていませんでした。友部駅の開業は、明治28年、常磐線開通よりも少し早い7月1日でした。駅名は、大字名「南友部(みなみともべ)」の地名から名付けられています。
さて、友部駅が設置される前は、どのような土地だったのでしょう。古地図を見てみると、現在の友部駅周辺は南北にわたり原野で、狸や狐が住み、付近の農家の草刈り場であったようです。現在のJT友部工場敷地から鴻巣(こうのす)および東側は、一面の松林でした。また、南西部には雑木林が続き、その間を並木が宍戸から水戸坂、そして現在の友部里道踏切(友部駅の西側の踏切)から県立中央病院の南側に延び、鯉淵(こいぶち)街道となっており、淋しいところでした。鯉淵街道のほかに、宍戸から南友部、小原(おばら)を経て、三軒屋(さんげんや)(水戸市)を結ぶ杉崎(すぎさき)街道もありました。
明治になって鉄道が敷設されますが、当時の人々には、よく思われなかったようです。それは、蒸気機関車から出る火の粉によって火事になることを恐れたからだと考えられます。これにより、人家から離れたところに鉄道が敷かれました。
友部駅の開業の折には、機関車転向用の扇線(おうぎせん)の中に芝居小屋をつく っ て、祝賀の行事が賑やかに行われました。土浦線(常磐線の一部、友部‐土浦間)が開通した頃の友部駅については、 明治28年11月6日付け「いはらき」で、「友部は、水戸線及び土浦線の連結の駅で広大であり、将来、盛大になるだろう」と予想しています。友部駅周辺に、宍戸や北川根(きたかわね)、大原(おおはら)地区から移住し、記事の通り、友部は駅を中心として、現在まで大いに発展しました。
最後に、明治の末期、当時の友部駅長赤熊才次郎が、六百本の桜苗を皆で駅構内に植樹したと言われています。大正・昭和の代になりますと、いずれも大木になり、遠近から花見でたくさんの人が訪れました。
(市史研究員 福島和彦)
上空から見た友部駅と扇線
55. 笠間市立歴史民俗資料館
宍戸(ししど)小学校前交差点角に、笠間市立歴史民俗資料館があります。木造二階建て寄棟造り(よせむねづくり)の洋風建築で、令和3年6月に開館40周年を迎えます。
この建物は、昭和12年(1937)1月に宍戸町役場庁舎として建てられました。敷地は、地元町民から寄付され、建設費もほとんどが寄付でまかなわれました。
戦後、昭和30年(1955)1月に町村合併により友部町が誕生し、町内に新庁舎が完成するまでの3年余り、友部町役場庁舎として使われました。新庁舎完成後は、町の公民館に利用されたのち、広域消防の友部消防分署にもなりました。同分署が新庁舎に移ると、町は建物の有効な活用を図ろうと協議を重ねた結果、郷土の民俗及び歴史資料を保存展示する施設として役立てることとしました。当時、国の施策に「歴史民俗資料館の設置」があり、昭和56年(1981)に国から認可され、同年6月に友部町立歴史民俗資料館として開館しました。その後、建物は平成16年(2004)2月17日付けで、国の登録有形文化財として登録され、貴重な国民的財産になりました。同18年3月の市町合併により、現在は市の施設とな っています。
玄関を入り目にするのは、小原(おばら)の高寺古墳群の二号墳(市指定史跡)から出土した鉄製直刀七振、武人埴輪(ぶじんはにわ)片などで、これら出土品も、市指定文化財になっています。南側の壁には、歴史年表や江戸時代前期の宍戸城下絵図が掲げられています。奥には、友部町立第一保育所改築時に出土した蔵骨器(ぞうこつき)(外容器と小型の蔵骨器・市指定文化財)が展示されています。北側には、農具や養蚕に関する用具などが並び、説明が付けられています。二階に上がると、交通の移り変わりや商工業の発展が分かる展示があり、生活の中で使われたランプや蓄音機なども展示され、奥には宍戸焼のコーナーが設けられ、見ごたえのある資料館です。
(市史研究員 幾浦忠男)
二重構造の蔵骨器(市指定文化財) 笠間市立歴史民俗資料館(国登録有形文化財)
56. 笠間市郷土資料館
常磐線岩間駅から南西へ、愛宕山に向かって約1キロメートル、国道355号を渡り、下郷と泉の境に笠間市郷土資料館があります。
本館は、昭和60年(1985)、岩間中央公民館脇に、岩間町図書館として開館しました。平成20年(2008)に図書館が市民センターいわま内に移動した後、郷土資料館として地域の資料を保存する岩間地区唯一の施設です。
館内には、上郷西寺遺跡出土の「円面硯(えんめんけん)」、長堤遺跡出土の「銅造桧垣秋草双雀鏡(どうぞうひがきあきくさそうじゃくきょう)」、安居(あご)東平遺跡から出土した「騎兵長十(きへいちょうじゅう)」と記された「墨書(ぼくしょ)土器」、弓矢に使われる「雁股式鉄鏃(かりまたしきてつぞく)」(いずれも市指定文化財)、八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)の伝説にまつわる大量の「焼き米」、他にも笠間焼の壺類など貴重な文化財が保管されています。
また、『友部町史』『岩間町史』など、今までに発刊された書籍に収録された古文書類や古写真をはじめ、地域に眠っている貴重な歴史資料など、数万点の資料が保管されています。現在は、主に市史研究員が地域の歴史研究や史料整理に利用しており、新たな歴史的発見、研究に向けて地道な作業を続けています。
正面玄関から外へ目を向けると、市内最大の円墳「御前塚(ごぜんづか)古墳」(市指定史跡)が目に入ります。直径約60メートル、高さ約6メートル、周溝を含めた全長は約100メートルに及びます。5世紀前半のものとされる古墳で、円筒埴輪片が出土し、また、かつて南裾に石棺が置かれていたとの言い伝えもあり、ヤマト王権につながる中小首長の墓とみられます。この古墳の南側には、ほぼ同規模の「藤塚古墳」が存在し、周囲にはさらに大小数基の古墳が確認され、古墳時代の繁栄が窺えます。
この場所は、昭和20年代に旧岩間第一中学校、同46年(1971)に完成した中央公民館の跡地であり、春の時期には満開の桜で賑わいました。南側のグラウンドでは、町の運動会も行われました。今では、公民館も解体され、ひっそりと空き地が広がります。是非この歴史的環境を維持しながら、昔のように地域の人達が楽しめる、賑わいのある利用を考えていけたらと思っています。
(市史研究員 川﨑史子)
御前塚古墳(市指定史跡) 笠間市郷土資料館
57. 岩間に建つ明治天皇行幸記念碑
国道355号(石岡岩間バイパス)の篠後(しのど)地内の交差点から南へ約50メートル入った左側に明治天皇行幸記念碑があります。
明治23年(1890)10月27日、岩間村室野原(むろのはら)(現笠間市下郷)で実施された近衛師団の演習を統監され るため、明治天皇が行幸された時の記念碑です。
当時は、常磐線が未開通であったため、小山駅経由で水戸鉄道を利用され、前日に水戸市の行在所(あんざいしょ)(天皇の行幸時の仮住まい)に入られました。
演習当日、天皇は、水戸駅から汽車で宍戸駅までお越しになりました。当時、宍戸駅は未竣工であったため駅舎はなく、臨時に待合室をつくったそうです。列車が宍戸駅に到着すると、多くの住民が整列して迎えました。
天皇は、「金華山(きんかざん)」という名の愛馬に乗って室野原の演習場へ向かいました。有栖川宮(ありすがわのみや)ほか政府高官、近衛の将校たちが馬で随行し、皇后は馬車で向かったそうです。
近衛師団は、赤白の両陣営に分かれ、各々旗を靡(なび)かせ戦いました。天皇は、熱心に演習をご覧になり、終了の報告があると、室野原の御野立所(おのだてしょ)(天皇や貴人の野外の休憩所 )で休息された後、再び宍戸駅から汽車で水戸市の行在所に帰られました。翌日は、成井原(なるいがはら)(現石岡市)での演習と観兵式(かんぺいしき)に臨まれたそうです。
「明治天皇岩間御野立所」記念碑のすぐ側に、次の文が刻された石碑があります。
(読み下し概略)
維れ明治廿有(にじゅうゆう)三年十月廿七日、天皇皇后両陛下、辱(かたじけ)なくも、玉趾(ぎょくし)を此(ここ)に駐めて、親しく近衛兵の講武を閲す。夫れ我郷は郡の西南隅に在り、連山後に擁し、曠野(あらの)前に接し 、最も僻壌(へきじょう)為り。然而(しかるに)、幸いに昭陽(しょうよう)の下に値い、照洽(しょうごう)せられ盛徳の光を被る。村民子の如く来り、道を修し、蕪(ぶ)を芟(か)り、謹て翠坡(すいか)(天皇の旗)を迎ふ。寛(じつ)に我郷の光榮、千載の一隅なり。爾来(じらい)、歳月經過すれば、聖蹟(せいせき)の湮滅(いんめつ)に帰するを恐る。相謀りて、これを石に勒(ろく)し、以って永く後世に垂ると云う。
紀元二千五百五十年十一月廿七日
岩間村人民建之
(市史研究員 松本兼房)
明治天皇行幸記念碑
58. 大石邸跡
かさま歴史交流館井筒屋の近くに、大石邸の跡があります。ここは、赤穂(あこう)藩浅野氏の国家老(くにがろう)で「忠臣蔵」で知られる大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)の曽祖父良勝と祖父良欽(よしたか)が住んでいた屋敷跡です。なぜ大石氏がこの地に住むようになったのかを紹介します。
まず、大石氏の主君であった浅野氏についてお話しします。浅野氏の始祖・浅野長政と豊臣秀吉の両妻は姉妹で、義兄弟の関係から、長政は豊臣政権を支えました。秀吉の没後、長政は石田三成と対立し、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川軍に参加しました。江戸幕府が開かれ、長政は家康から真壁五万石を隠居領として賜りました。長政の没後、三男長重(ながしげ)(浅野氏分家の初代)が相続し、大坂の陣の戦功により、元和(げんな)8年(1622)、笠間五万三 千五百石の藩主となりました。
浅野氏が笠間に移ると、武家屋敷が不足し、本丸の藩庁の館は狭く、家臣たちが登城する山城は城下町から遠いなどの問題がありました。浅野氏二代の長直(ながなお)(笠間藩の時は「長綱(ながつな)」と称す)は、寛永20年(1640)頃 、城下町に近い佐白山西橋の台地にあった玄勝院管理の白山(はくさん)神社を移転させ、館を建てました。敷地を「下屋敷」と呼び、建物を「御殿」と称しました。その御殿の概要は明らかでありませんが、旅人は「新城」と見たようで、たいそう立派な御殿であったと推測されます。笠間藩では山城の出城として建設したため幕府の許可を得ませんでしたが、新城を建てたとの誤解を消すために、一夜にして白壁の塀を壊し垣根にしました。この時に「下屋敷の逆さ杭」の伝説が生まれました(『笠間の民話』上巻)。
藩庁ができると家臣の屋敷地を決めました。御殿に近い田町と入山居(いりさんきょ)(現桂町)を上級家臣の屋敷にしました。ここで筆頭家老の大石家は、御殿に最も近く、城下町の事情もよく分かるこの屋敷を与えられたのでしょう。しかし、浅野氏は正保(しょうほう)2年(1645)に赤穂藩に移封となり、大石氏がこの屋敷にいたのは、4、5年の間であったと思います。その後の代々 の笠間藩主もこの地を家老級の家屋敷にしました。
現在、邸内には、山麓(さんろく)公園から移築された大石良雄の銅像が雄々しい姿で46人を指揮しています。ここには、案内板や「浅野氏・大石氏と笠間市」の詳しい説明板が建てられています。井筒屋へお越しの折には、ぜひ大石邸跡にもお寄りいただき、城下町の景観と合わせて探訪されますようお勧めします。
(市史研究員 小室昭)
大石邸跡
59. 小原神社と周辺の歴史探訪
小原神社は、小原地区のほぼ中央、古宿(ふるじゅく)に鎮座しています。創建は永徳元年(1381年)で、神主富田道生(とみたみちお)(道正)が鹿島の神を奉迎して鎮守の神とし、高淤加美(たかおかみ)神社と尊称しました。祭神は、高龗神(たかおかみのかみ)・闇龗神(くらおかみのかみ)・建速素戔嗚尊(たけはやすさのおのみこと)です。高龗・闇龗の神は雨を司る龍神で、小原神社の別名を八龍神ともいいました。
神明(しんめい)鳥居をくぐると、千鳥破風(ちどりはふ)のトタン葺きの拝殿が建っています。拝殿前に獅子を象った狛犬が配置され、その前に昭和10年寄進の石灯篭と天水桶(てんすいおけ)があります。境内には笠間敬神講碑と小原神社敬神講碑がたっています。笠間敬神講碑には、北川根村・宍戸町・南山内村・本戸・南友部などの人名が刻まれ、近隣の町村の崇敬を集めていました。
鎮守の森には、市の天然記念物に指定されているケヤキ1号から3号(4号は枯損により伐採)、御神木であるスギの巨樹が聳えています。ケヤキ(第2号)は、目通り幹周りが8.1メートル、樹高は約40メートルの大木です。スギは、幹周りが5メートル、樹高は約38メートルです。神社が創建された頃からの樹木でしょう。
神社の東方一帯には、縄文・弥生・古墳・奈良・平安時代の遺跡が広がっています。特に、小原地区の県営畑地帯整備に伴う発掘調査では、弥生時代の大規模な集落跡が発見されています。また、諏訪古墳・一本松古墳・山王塚古墳(いずれも市指定史跡)があり、奈良時代には茨城郡の郡家(ぐうけ)(律令制下における郡の役所)が置かれ、「茨城」の県名の発祥地とされています。
神社の西側には、曹洞宗(そうとうしゅう)の廣慶寺(こうけいじ)・小原城跡・銘酒「郷乃誉(さとのほまれ)」の醸造元須藤本家などがあります。廣慶寺墓地は、高寺古墳群に属し、二号墳は市指定史跡で、その出土物(市立歴史民俗資料館に展示)も市指定文化財となっています。また、小原城本丸跡(市指定史跡)は、戦国時代の里見氏の城館で、廣慶寺墓地には里見氏の墓もあります。里見氏は、手綱郷(たづなごう)(高萩市)の豪族で、『南総里見八犬伝』で知られる房総の里見氏と同族です。
小原神社を中心とする地域は文化財が多いところです。小原の里の歴史を探訪してみてはいかがでしょうか。
(市史研究員 南秀利)
小原神社 ケヤキ(第2号)
60. 隠沢観音の鰐口
笠間市泉に祀られる隠沢観音(かくれざわかんのん)の正式名称は、真言宗豊山派嶽南山慈眼院清滝寺(以下、慈眼院(じがんいん)と略)です。現在、寺院は消滅し観音堂と本尊である室町時代後半に造られた十一面観音立像(市指定文化財)のみが残っています。
観音堂は、国道355号を石岡方面へ進み、市野谷の隠沢観音堂入口を右折し直進した所にあります。
慈眼院は愛宕山の南、嶽南山中腹の堂平に創建されましたが、江戸時代前半の延宝元年(1673)、この地の領主である土浦藩主土屋政直により現在地に移されました。
慈眼院の鰐口(わにぐち)(市指定文化財)は、現在笠間市郷土資料館に保管されています。鰐口とは、神社の拝殿や寺院の堂前軒下に掛けられた青銅製の「法楽器」の一種であり、参拝の折、鰐口に添って垂れ下がる綱を振って打ち鳴らすとガランガランと鈍い音がします。この鰐口には銘文がみられ、中央に種子(しゅじ)「サ」(=観音菩薩を意味する)、右側に「常州完戸庄泉郷嶽南澤観音堂之鰐口」、左側に「貞和五年己丑三月日 別當僧裕尊」とあり、この銘文から、貞和5年(1349)、慈眼院住職の裕尊の代にこの鰐口が鋳造され、この地が常陸国の宍戸庄という荘園の中の泉郷と呼ばれていたことがわかります。これにより、この地域の中世的景観をうかがうことができ、また人々の観音信仰の様子を知ることができます。
この鰐口は埼玉県与野市(現在のさいたま市)教育委員会が、市内にある長伝寺 (浄土宗) を調査した際に発見され、「嶽南澤観音堂」 の刻銘から、 本来の持主は慈眼院であることが判明しました。長伝寺の好意により昭和62年 (1987)に慈眼院に返却されました。
隠沢観音本尊は近年まで安産・子育ての観音として、近郷近在の女性の信仰を集め、毎月10日の縁日には参拝者が月参りに訪れたといわれています。特に7月10日は 「隠沢の朝観音」 で賑わいました。当日は 「四万六千日」(しまんろくせんにち)という年行事が催され、この日にお参りすると四万六千日分の功徳があるとされ、さらに「一番祈祷はご利益が倍になる」といわれました。観音堂ではこの日に何度か祈祷が催され、10日の朝最初の祈祷に臨むことで、より多くの功徳とご利益を得ようとする気持ちが 「隠沢の朝観音」 の言葉には秘められているかと思われます。
(市史研究員 萩野谷洋子)
慈眼院の鰐口 隠沢の朝観音
(一番祈祷を受けようと先を急ぐ信者たち)