笠間の歴史探訪(vol.71~)
71. 森田桜園の熱海への旅立ち
江戸時代後期、笠間藩の藩校時習館の教授、森田桜園(もりたおうえん)が書き残した著作の中に「熱海紀行」 があります。桜園自筆のもので、和紙に丹念に書き留めています。漢文で書かれている紀行文を和文に改めて紹介します。
予、将(まさ)に熱海の勝(しょう)を探り、便途(べんと)鹿島三社に謁(えっ)し、注子(銚子)港を過ぎ、成田不動祠(し)に謁し、以(もっ)て江都(こうと)に抵(いた)らんとす。竹中賢蔵を僕(しもべ)となし、戊戌(つちのえいぬ)年三月十八日を以て発す。
天保(てんぽう)9年(1838)の春、従者(じゅうしゃ)一人を伴い熱海の名勝を訪ねる旅の途中、鹿島・息栖(いきす)・香取の東国三社を参詣、銚子港に寄り、成田山新勝寺を参拝したのち、江戸へ向かうこととし、旅立ちの日の様子を次のように記しています。
日出(ひので)、家を発す。関口広淵・宮寺賢・菅沼正夫・小幡梅次・竹中八百治送って六部塚に至りて別る。加藤緝熙(しゅうき)独り随いて、粟屋為吉・佐野良三郎・樋口要・山森雄・朝比奈良恭、及び予、手越村より宍戸に至り、柏楼(かしわろう)に投じ、離杯(りはい)を諸子と酌み、送別の作有り。緝熙、横笛を吹き、落梅花(らくばいか)を唱う。観る者市(いち)の如し。諸子相送りて橋上(きょうじょう)に至る。
予、清水寺(せいすいじ)坂を登る。諸子、佇立して橋辺(きょうへん)に在るも、言語相違せず。顧みて拝謝す。
別れの場所となった六部塚は、下市毛地内並木坂上の小高い丘の上と思われます。幕末の「下市毛村絵図」を見ると、常楽観音堂や松並木が描かれて「常楽並木宍戸御道」と記されています。笠間藩主の参勤交代路が、旅立ちの道にもなりました。一行は手越村を経て宍戸へ入り、平町の通り沿いにあった柏楼に着きました。ここで送別の宴(えん)を催し、別れの盃を酌み交わしました。横笛に堪能な緝熙すなわち加藤熈(ひろし)が別れの曲「落梅花」を吹き始めると、見物人が大勢集まりました。桜園は門下生の熈を高く評価し、「徳が光り輝く」意味の緝熙の名で呼んでいます。当時、桜園は40歳を過ぎ、熈は20代後半の若者でした。熈は桜老と号し、幕末から明治前期に儒学者として活躍しました。下加賀田橋の上が、再度の別れになりました。桜園は橋を渡り、しばらく歩き坂の上に進みました。見送る人々が橋のたもとに立ち続け、旅の安全を祈る情景が目に浮かびます。互いに姿は確認できても、言葉を交わせないほど離れてしまいました。桜園は感謝の気持ちを込め、深々と頭を下げて府中(現石岡市)へ向かいました。
その後順調に旅を続け、江戸に立ち寄り、4月1日熱海に着きました。桜園が温泉に入ろうとすると、甲乙二つの浴槽がありました。甲の浴槽に熱い湯を貯え乙の浴槽に入り、冷めると貯えた熱い湯を汲み入れました。四日に熱海を出発、帰路、鎌倉の寺社を参詣しました。それから後江戸に立ち寄り、19日に府中を出発、午後帰宅しました。一か月に及ぶ長旅で見聞を広めることができた反面、苦労の多い旅であったことが窺えます。
桜園は後年、東北地方を2回旅して、「北遊紀程」や「磐城(いわき)紀行」を書き残しました。和文で記した「真壁路之記」もあります。
(市史研究員 幾浦忠男)
![]() 桜園が歩いた下加賀田の清水寺坂。坂下に阿弥陀堂や石仏・石碑が並び、北関東道の隧道を抜け坂道が続く |
「熱海紀行」第一頁 |
72. 岩間泉地区伝承 オウシュウカイドウ路傍に建つ「奥州仙台アボハラ地蔵」
国道355号泉地内、愛宕山への登り口十字路の南東500メートルほどに位置する南八坂神社付近の竹林の中に、古い地蔵が2体ひっそりと建っています。近隣の古老の話では「奥州仙台アボハラ地蔵」と呼ばれる親子地蔵だというのです。またそこから北へ500メートルほどの北八坂神社手前の畑に建つ地蔵も「オウシュウカイドウ」の伝承を持つ道沿いに建つ対の地蔵といわれています。
今から千年も昔、源義家が奥州征伐(1051~1083)に多くの兵(つわもの)を引き連れ行き交った古代官道が下安居地内を通っています。この道は、源頼朝も後に岩間上郷、宍戸地区を支配する八田知家、宍戸家政とともに佐竹氏討伐(1180)に行き交った道でもあります。その道より3キロほど西に、泉地区から下郷、上郷、そこから先、大古山、矢野下、随分附を過ぎ、さらに古代官道へつながり、水戸地内河内駅家(かわちのうまや)(812年廃止)を北進し、陸奥国府多賀城付近仙台周辺まで、「オウシュウカイドウ」といわれたもう一本の道が、存在したのではないかと最近推測しています。はっきりしない地点も多々ありますが、その道筋には現在も古老たちの言い伝える「オウシュウカイドウ」という言葉や伝承が残っています。
1つは泉地区から北へ向かい岩間下郷に入ると八幡神社(現六所神社)があり、義家の戦勝祈願に地元の者たちが祠を建てたと伝わります。すぐ脇の愛宕山登り口路傍には江戸時代建立(1695)ではありますが、3体目の「奥州仙台アボハラ地蔵」が建てられています。仙台の行者が「オウシュウカイドウ」からこの地へ辿りつき、生き倒れになった者を弔った地蔵だと伝えています。その細い道をさらに北へなだらかに下ると、上郷の田園地帯に出ます。ここには御正作(みそさく)(領主の直営田)や堀ノ内(領主館)の地名が残り、宍戸家政の所領地宍戸荘(ししどのしょう)と伝えられ、領主が馬に跨り鎌倉幕府へ行き交った街道でもありました。その街道東側には佐藤林といわれる平地林が広がり、ここに住み続けた佐藤家(1707年銘位牌を有する)の伝承によると「林の中にある幾つかの塚を掘るとたくさんの馬の死骸が現われ、有毒な煙が立ち上り掘り起こした者はことごとく死んでしまった。祟りと思い、馬の霊を弔って現在の室野地内の馬頭観音堂を作った。遠い昔、東北に戦いに行くたくさんの武士がこの地を通り、亡くなった馬を埋めていったのだ」と伝えています。佐藤林の南東には「奥州ヶ池」と呼ばれる小さな池もあり、涸沼川の支流桜川へ流れ込む「軍勢川」や岩間支所周辺の「白旗」という小字名等も残されています。この辺りから涸沼川を渡り、矢野下を抜け、随分附、鯉淵方面へ進み、古代官道へ合流するもう1本の細い「オウシュウカイドウ」が浮かび上がります。奥州征伐への何万という兵が一度に集まるわけもなく、少しずつあちこちの領主が領民を集めながらの行軍で、様々な伝説を生みながら歴史は語り継がれてきたのでしょう。
(市史研究員 川﨑史子)
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奥州仙台アボハラ地蔵 |
73. 笠間示現流剣法と村上家
櫻花を愛でる言葉に「西に吉野、東に磯部」と言う言葉がありますが、剣についても「西に柳川、東に笠間」と謳われた笠間の剣、示現流(じげんりゅう)がありました。示現流の稽古は、粗朶木(そだき)を20~30センチメートル位の太さに束ねたものを両支柱で支え、それを木刀に見立てた堅い丸太で、叩いて叩いて叩きまくります。初めは手が痺れて痛いですが、稽古を積むうちに手首が締まって、割り箸を鉈(なた)で叩き割る如く破壊力を生む、初太刀で相手を倒す気力体力を養う剣法です。示現流は薩摩固有の剣法で藩のお家流儀と云われていますが、奇しくも常陸国笠間に端を発しているとも云われています。その概要を記してみます(村上義博著『笠間示現流剣法』と『笠間市史』を参考としました)。
戦国時代末のころ、笠間の郷士(郷村在住の武士)土瀬(ととせ)長宗が飯篠長威斎(いいざさちょういさい)家直を流祖とする天真正伝香取神道流(てんしんしょうでんかとりしんとうりゅう)を学び、これに工夫を加え「天真正自顕流(てんしんしょうじげんりゅう)」と称しました。その後常陸国の住人金子新九郎、同国住人赤坂弥九郎、更に薩摩の武士東郷藤兵衛重位(しげかた)に伝わり、重位は剣法に工夫を凝らし「示現流」と称しました。後に島津家の御家流として代々続くことになりました。
江戸時代の中期、日向国延岡で示現流を学び免許皆伝を得ていた村上義知(よしとも)が道場を開いていました。延岡藩牧野家では義知の力量を知り、藩の剣術指南役にしようとしましたが、義知が前に仕えていた佐土原藩(さどわらはん)との関係からそれが出来ないことを知り、そこで義知の子で当時10歳の義明を採用し、父から稽古を受け、後に藩の指南役になるよう申し渡し、義知は子義明の後見人として指導に当たることになりました。村上義明は成人して藩の指南役となり、33歳のとき藩主牧野貞通の笠間転封に従い、笠間の地に移りました。ここに笠間藩示現流が始まったのです。村上義明・義白・義端(よしただ)(亘(わたる)は義端の呼び名)・義衛(よしえい)(父義端の呼び名である亘を継ぐ)・義治(よしはる)と五代にわたり村上家は笠間藩示現流指南を務めました。
文化14年(1817)に藩校時習館が発足し、ここで武術の指導も行われたとみられます。文政9年(1826)には独立した武術稽古場「講武館」が設けられ、更に安政6年(1859)現在の笠間小学校敷地一帯に、時習館(文)・講武館(武)・博采館(医)を統合した時習館が開館しました。
特に義衛(亘)は、講武館、時習館、砲術師範・館長等の要職を担い各方面で活躍しました。亘が指導した門弟は、天保期から慶応期までに194名にのぼり笠間藩示現流の底辺を広げました。弘化2年(1845)に剣術を熱心に指導したので藩主より紋付(もんつき)と麻裃(あさかみしも)を授かりました。明治13年(1880)75歳で没し、鳳台院の墓地に埋葬されました。
(市史研究員 松本兼房)
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村上亘の墓(鳳台院) |