笠間の歴史探訪(vol.71~80)
71. 森田桜園の熱海への旅立ち
江戸時代後期、笠間藩の藩校時習館の教授、森田桜園(もりたおうえん)が書き残した著作の中に「熱海紀行」 があります。桜園自筆のもので、和紙に丹念に書き留めています。漢文で書かれている紀行文を和文に改めて紹介します。
予、将(まさ)に熱海の勝(しょう)を探り、便途(べんと)鹿島三社に謁(えっ)し、注子(銚子)港を過ぎ、成田不動祠(し)に謁し、以(もっ)て江都(こうと)に抵(いた)らんとす。竹中賢蔵を僕(しもべ)となし、戊戌(つちのえいぬ)年三月十八日を以て発す。
天保(てんぽう)9年(1838)の春、従者(じゅうしゃ)一人を伴い熱海の名勝を訪ねる旅の途中、鹿島・息栖(いきす)・香取の東国三社を参詣、銚子港に寄り、成田山新勝寺を参拝したのち、江戸へ向かうこととし、旅立ちの日の様子を次のように記しています。
日出(ひので)、家を発す。関口広淵・宮寺賢・菅沼正夫・小幡梅次・竹中八百治送って六部塚に至りて別る。加藤緝熙(しゅうき)独り随いて、粟屋為吉・佐野良三郎・樋口要・山森雄・朝比奈良恭、及び予、手越村より宍戸に至り、柏楼(かしわろう)に投じ、離杯(りはい)を諸子と酌み、送別の作有り。緝熙、横笛を吹き、落梅花(らくばいか)を唱う。観る者市(いち)の如し。諸子相送りて橋上(きょうじょう)に至る。
予、清水寺(せいすいじ)坂を登る。諸子、佇立して橋辺(きょうへん)に在るも、言語相違せず。顧みて拝謝す。
別れの場所となった六部塚は、下市毛地内並木坂上の小高い丘の上と思われます。幕末の「下市毛村絵図」を見ると、常楽観音堂や松並木が描かれて「常楽並木宍戸御道」と記されています。笠間藩主の参勤交代路が、旅立ちの道にもなりました。一行は手越村を経て宍戸へ入り、平町の通り沿いにあった柏楼に着きました。ここで送別の宴(えん)を催し、別れの盃を酌み交わしました。横笛に堪能な緝熙すなわち加藤熈(ひろし)が別れの曲「落梅花」を吹き始めると、見物人が大勢集まりました。桜園は門下生の熈を高く評価し、「徳が光り輝く」意味の緝熙の名で呼んでいます。当時、桜園は40歳を過ぎ、熈は20代後半の若者でした。熈は桜老と号し、幕末から明治前期に儒学者として活躍しました。下加賀田橋の上が、再度の別れになりました。桜園は橋を渡り、しばらく歩き坂の上に進みました。見送る人々が橋のたもとに立ち続け、旅の安全を祈る情景が目に浮かびます。互いに姿は確認できても、言葉を交わせないほど離れてしまいました。桜園は感謝の気持ちを込め、深々と頭を下げて府中(現石岡市)へ向かいました。
その後順調に旅を続け、江戸に立ち寄り、4月1日熱海に着きました。桜園が温泉に入ろうとすると、甲乙二つの浴槽がありました。甲の浴槽に熱い湯を貯え乙の浴槽に入り、冷めると貯えた熱い湯を汲み入れました。4日に熱海を出発、帰路、鎌倉の寺社を参詣しました。それから後江戸に立ち寄り、19日に府中を出発、午後帰宅しました。1ヶ月に及ぶ長旅で見聞を広めることができた反面、苦労の多い旅であったことが窺えます。
桜園は後年、東北地方を2回旅して、「北遊紀程」や「磐城(いわき)紀行」を書き残しました。和文で記した「真壁路之記」もあります。
(市史研究員 幾浦忠男)
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桜園が歩いた下加賀田の清水寺坂。坂下に阿弥陀堂や石仏・石碑が並び、北関東道の隧道を抜け坂道が続く |
「熱海紀行」第一頁 |
72. 岩間泉地区伝承 オウシュウカイドウ路傍に建つ「奥州仙台アボハラ地蔵」
国道355号泉地内、愛宕山への登り口十字路の南東500mほどに位置する南八坂神社付近の竹林の中に、古い地蔵が2体ひっそりと建っています。近隣の古老の話では「奥州仙台アボハラ地蔵」と呼ばれる親子地蔵だというのです。またそこから北へ500mほどの北八坂神社手前の畑に建つ地蔵も「オウシュウカイドウ」の伝承を持つ道沿いに建つ対の地蔵といわれています。
今から千年も昔、源義家が奥州征伐(1051~1083)に多くの兵(つわもの)を引き連れ行き交った古代官道が下安居地内を通っています。この道は、源頼朝も後に岩間上郷、宍戸地区を支配する八田知家、宍戸家政とともに佐竹氏討伐(1180)に行き交った道でもあります。その道より3kmほど西に、泉地区から下郷、上郷、そこから先、大古山、矢野下、随分附を過ぎ、さらに古代官道へつながり、水戸地内河内駅家(かわちのうまや)(812年廃止)を北進し、陸奥国府多賀城付近仙台周辺まで、「オウシュウカイドウ」といわれたもう一本の道が、存在したのではないかと最近推測しています。はっきりしない地点も多々ありますが、その道筋には現在も古老たちの言い伝える「オウシュウカイドウ」という言葉や伝承が残っています。
1つは泉地区から北へ向かい岩間下郷に入ると八幡神社(現六所神社)があり、義家の戦勝祈願に地元の者たちが祠を建てたと伝わります。すぐ脇の愛宕山登り口路傍には江戸時代建立(1695)ではありますが、3体目の「奥州仙台アボハラ地蔵」が建てられています。仙台の行者が「オウシュウカイドウ」からこの地へ辿りつき、生き倒れになった者を弔った地蔵だと伝えています。その細い道をさらに北へなだらかに下ると、上郷の田園地帯に出ます。ここには御正作(みそさく)(領主の直営田)や堀ノ内(領主館)の地名が残り、宍戸家政の所領地宍戸荘(ししどのしょう)と伝えられ、領主が馬に跨り鎌倉幕府へ行き交った街道でもありました。その街道東側には佐藤林といわれる平地林が広がり、ここに住み続けた佐藤家(1707年銘位牌を有する)の伝承によると「林の中にある幾つかの塚を掘るとたくさんの馬の死骸が現われ、有毒な煙が立ち上り掘り起こした者はことごとく死んでしまった。祟りと思い、馬の霊を弔って現在の室野地内の馬頭観音堂を作った。遠い昔、東北に戦いに行くたくさんの武士がこの地を通り、亡くなった馬を埋めていったのだ」と伝えています。佐藤林の南東には「奥州ヶ池」と呼ばれる小さな池もあり、涸沼川の支流桜川へ流れ込む「軍勢川」や岩間支所周辺の「白旗」という小字名等も残されています。この辺りから涸沼川を渡り、矢野下を抜け、随分附、鯉淵方面へ進み、古代官道へ合流するもう1本の細い「オウシュウカイドウ」が浮かび上がります。奥州征伐への何万という兵が一度に集まるわけもなく、少しずつあちこちの領主が領民を集めながらの行軍で、様々な伝説を生みながら歴史は語り継がれてきたのでしょう。
(市史研究員 川﨑史子)
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岩間泉地区オウシュウカイドウ周辺地図 |
奥州仙台アボハラ地蔵 |
73. 笠間示現流剣法と村上家
櫻花を愛でる言葉に「西に吉野、東に磯部」と言う言葉がありますが、剣についても「西に柳川、東に笠間」と謳われた笠間の剣、示現流(じげんりゅう)がありました。示現流の稽古は、粗朶木(そだき)を20~30cm位の太さに束ねたものを両支柱で支え、それを木刀に見立てた堅い丸太で、叩いて叩いて叩きまくります。初めは手が痺れて痛いですが、稽古を積むうちに手首が締まって、割り箸を鉈(なた)で叩き割る如く破壊力を生む、初太刀で相手を倒す気力体力を養う剣法です。示現流は薩摩固有の剣法で藩のお家流儀と云われていますが、奇しくも常陸国笠間に端を発しているとも云われています。その概要を記してみます(村上義博著『笠間示現流剣法』と『笠間市史』を参考としました)。
戦国時代末のころ、笠間の郷士(郷村在住の武士)土瀬(ととせ)長宗が飯篠長威斎(いいざさちょういさい)家直を流祖とする天真正伝香取神道流(てんしんしょうでんかとりしんとうりゅう)を学び、これに工夫を加え「天真正自顕流(てんしんしょうじげんりゅう)」と称しました。その後常陸国の住人金子新九郎、同国住人赤坂弥九郎、更に薩摩の武士東郷藤兵衛重位(しげかた)に伝わり、重位は剣法に工夫を凝らし「示現流」と称しました。後に島津家の御家流として代々続くことになりました。
江戸時代の中期、日向国延岡で示現流を学び免許皆伝を得ていた村上義知(よしとも)が道場を開いていました。延岡藩牧野家では義知の力量を知り、藩の剣術指南役にしようとしましたが、義知が前に仕えていた佐土原藩(さどわらはん)との関係からそれが出来ないことを知り、そこで義知の子で当時10歳の義明を採用し、父から稽古を受け、後に藩の指南役になるよう申し渡し、義知は子義明の後見人として指導に当たることになりました。村上義明は成人して藩の指南役となり、33歳のとき藩主牧野貞通の笠間転封に従い、笠間の地に移りました。ここに笠間藩示現流が始まったのです。村上義明・義白・義端(よしただ)(亘(わたる)は義端の呼び名)・義衛(よしえい)(父義端の呼び名である亘を継ぐ)・義治(よしはる)と五代にわたり村上家は笠間藩示現流指南を務めました。
文化14年(1817)に藩校時習館が発足し、ここで武術の指導も行われたとみられます。文政9年(1826)には独立した武術稽古場「講武館」が設けられ、更に安政6年(1859)現在の笠間小学校敷地一帯に、時習館(文)・講武館(武)・博采館(医)を統合した時習館が開館しました。
特に義衛(亘)は、講武館、時習館、砲術師範・館長等の要職を担い各方面で活躍しました。亘が指導した門弟は、天保期から慶応期までに194名にのぼり笠間藩示現流の底辺を広げました。弘化2年(1845)に剣術を熱心に指導したので藩主より紋付(もんつき)と麻裃(あさかみしも)を授かりました。明治13年(1880)75歳で没し、鳳台院の墓地に埋葬されました。
(市史研究員 松本兼房)
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鳳台院周辺地図 |
村上亘の墓(鳳台院) |
74. 絵図からみる笠間城下の桝形
笠間市立笠間小学校正門北一帯に桝形(ますがた)と呼ばれる地名が残っています。
桝形とは、文字どおり穀物を計量する桝のような四角の形を指す言葉ですが、城郭においては、城の出入口となる虎口に設けた敵兵の城内侵攻を防ぐために、石垣・土塁などで囲んだ防禦(ぼうぎょ)施設です。この桝形を笠間の絵図から見てみましょう。
現存する最も古い笠間城下の絵図として「常陸国笠間之城絵図」 (以下 「笠間の城絵図」と略)があります。この絵図は、正保(しょうほう)年間(1644~1648)に江戸幕府が諸大名に命じて「郷帳」(検地帳)と共に作成提出させた「正保城絵図」と呼ばれる絵図の一つです。「正保城絵図」は、幕府が諸藩の山川、城下を正確に把握するため、また各藩は城と城下町の姿など軍事的機密事項を包み隠さず表すことで、幕府への恭順の意を示したもので、157点の絵図があったとされています。幕府はこれらを江戸城内の紅葉山(もみじやま)文庫に、のちに明治政府が内閣文庫に収め、そして現在、国立公文書館に63点の絵図が国指定重要文化財として保管されています。「笠間の城絵図」は、正保2年(1645)、藩主井上正利の入封間もない時期の提出でした。笠間城下は前藩主浅野長直の治世に城下町としての構造が完成したと考えられます。
「笠間の城絵図」 には、幕府の指示通り建造物、堀の深さ、曲輪(くるわ)の広さまで描かれています。笠間城内では、天守曲輪の二層の天守櫓(てんしゅやぐら)、本丸の隅櫓(すみやぐら)、物見櫓(ものみやぐら)(八幡台櫓と宍ヶ崎櫓)など、また門に関しては天守曲輪入口門をはじめ、大手門、的場丸門、黒門など十三の門が描かれています。 天守曲輪、 本丸、 二の曲輪、帯曲輪(おびくるわ)の全周は塀が巡らされ、大手門の周辺では桝形のような空間が構築されています。一方、城下をみると、家臣団屋敷は、上級家臣の侍屋敷、そして中下級家臣の侍町や足軽町、町人町は本町(のちの大町)・新町・愛宕町・高橋町・高橋新町(のちの荒町)などの町割りが整備されています。高橋川・福田川(現在の涸沼川)の川幅、深さ、蒲生郷成の造成と伝えられる用水路なども詳しく記されています。そして街道には宍戸通(江戸道)の宍戸口、 真壁通(真壁通江戸道)の高橋口、小貫(おぬき)通(宇都宮街道)の小貫口、万福寺通(水戸街道)の愛宕町口、といった城下への入り口に土塁に囲まれた桝形が描かれ、山居(さんきょ)経由の水戸街道入り口である現在「桝形」と呼ばれる大町と大和田の接点は、同絵図では一般的な方形ではなく変形した土塁です。また坂尾口には食い違い虎口を築いています。そして桝形とともに城下の北方から西方を巻くように南流する涸沼川を城下の防禦に活用していたと考えられます。
こうして同絵図を見ていくと笠間の桝形は、城の防禦にとどまらず城下全体の防禦として機能していました。現在、私たちが利用する道で、ここは曲がっていて通行しにくいと感じるところが過去には桝形として、街道を屈曲させ敵を真っ直ぐに侵入させない工夫がなされた場所であったのです。何気ない通りからも、城下町笠間を実感することができる歴史ある街です。
(市史研究員 松山京子)
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正保城絵図 常陸国笠間之城絵図(国立公文書館蔵) |
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75.宍戸安芸守朝重開山の教住寺
笠間市住吉にある教住寺は、宍戸朝重(ししど ともしげ)(朝里(ともさと)・朝家(あさいえ))が開山で、住吉山松林院と号する時宗の名刹(めいさつ)です。時宗の開祖は捨聖(すてひじり)と崇められた一遍上人で、本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(しょうじょうこうじ)(遊行寺(ゆぎょうじ))です。貞和(じょうわ)2年(1346)、朝重が天台系の廃寺に新たに時宗の他阿自空(たあじくう)を招いて住吉道場を開き、それが教住寺になりました。
宍戸朝重は、鎌倉幕府滅亡後、建武の新政・南北朝の動乱期に足利尊氏に従い、各地を転戦し戦功を挙げました。『太平記』に「宍戸安芸守(あきのかみ)ハ物馴タル剛ノ者」と評され、関東にその名が轟いていました。各地を転戦しながら、小鶴荘を地頭請所(うけしょ)として支配し、湯崎の字(あざ)館内(かんない)に湯崎城を築いています。
戦乱の時代を生きた朝重は、他阿自空と「南無阿弥陀仏」を通して、当地方の平和と救済を祈願しました。当地方は、交通の要衝で、東南に向えば鹿島へ、途中の柏井地区には親鸞伝説が残っています。西に行けば垂柳(しだれやなぎ)(小原)・笠間・下野(しもつけ)国(栃木県)に通じています。教住寺の縁日は、参詣客で溢れ、門前に市が立つと言われるほどの賑わいだったと伝えられています。
繁栄を極めていた教住寺も、戦国・安土桃山時代になると、宍戸氏が衰退し、檀那(だんな)を失い困窮に陥りました。江戸時代になると、北出羽地方(秋田)から秋田実季(さねすえ)が五万石で宍戸に入封しました。元和2年(1616)教住寺は火災により堂宇を失いましたが、秋田氏の支援により復興することができました。正保2年(1645)、秋田氏が三春(福島県)に転封となり、宍戸地方は幕府領となりました。慶安元年(1648)、幕府より朱印地七石が授けられ、さらに寛文4年(1664)には水戸藩主徳川光圀から鐘楼堂の寄進を受けました。天和2年(1682)光圀の弟松平頼雄(よりかつ)が宍戸藩主となり、教住寺を支援しました。
明治になって、神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、存亡の危機に瀕しましたが、住職・檀信徒の尽力で危機を脱することができました。ところが、明治39年(1906)5月に本堂・庫裡(くり)・熊野社等を焼失してしまいました。同年8月に仮本堂兼庫裡を急ぎ再建して、かろうじて風雨を凌ぎました。さらに大正中期にも暴風により山門が倒壊、昭和14年(1939)には鐘楼の焼失と苦難が続きました。
昭和47年(1972)に現在の本堂が再建され、その後、客殿・書院・観音堂が復興し、庭園・墓地も整備され、かつての名刹の風貌を取り戻しました。
教住寺の本尊は銅造阿弥陀三尊像(善光寺式、籾含みの阿弥陀如来)で、笠間市の文化財に指定されています。宍戸の新善光寺の銅像阿弥陀三尊像(市指定文化財)も所蔵しています。また、閻魔(えんま)大王・十王像・四天王像・観音像・琵琶を持つ弁財天像が安置されています。『一遍上人絵詞伝縁起』・『播州問答集』・『一遍上人語録』・『六條縁起』・『浄業和讃』等の貴重な書籍も保存しています。連歌の始祖といわれる菅原道真の画像もあり、その前で歌会が開かれていました。住吉共有墓地には、宍戸朝重供養碑と三基の五輪石塔が立っています。
境内には、ケヤキ・マツ・シュラ・コウヤマキなどの大樹、ウメ・サクラ・アシビ・ツツジ・アジサイ・ヒガンバナ、モミジなど四季折々の花がきれいに咲いています。
現住職は、一遍上人の「踊念仏」を復興されました。修貮会(しゅにえ)・開山忌・六時礼讃などの行事を厳修しています。茨城県の時宗寺院の中でも特異の存在です。文化財を保護し、地方文化の発信地となっています。
(市史研究員 南秀利)
![]() 教住寺本堂 ![]() 宍戸朝重供養碑と五輪石塔 |
76.土浦藩主土屋陳直「常州岩間紀行」について
岩間地区の大半は江戸時代、土浦藩主土屋氏に統治されました。その初代藩主は土屋数直(かずなお)(1608~1679)、三代目は「常州岩間紀行」の作者陳直(のぶなお)(1696~1734)です。
天正3年(1575)、織田・徳川勢と武田勝頼勢が戦った長篠の戦いで武田勢は大敗しました。その後、武田氏は有力武将が離反し、遂に主従とも自害しました。このとき土屋昌恒(まさつね)(数直の祖父)は27歳、1男1女を妻に託して力戦奮闘して勝頼夫妻の自刃の時を稼ぎ、自らも自刃しました。昌恒の妻は2児を守り、男子平四郎(5歳)を清見寺(せいけんじ)(静岡県清水市)に託しました。天正17年(1589)、徳川家康が鷹狩りの帰途に同寺で小憩(しょうけい)した時、茶を運んだのが平四郎で、その立居振舞が尋常でないのを見て、その素性を住持(じゅうじ)に尋ねました。武田の臣土屋の孤児であるとわかり、強いてもらい受けました。のちに、平四郎は二代将軍徳川秀忠に仕え、秀忠の諱(いみな)一字を賜り「忠直」と改めました。のち上総(かずさ)国久留里(千葉県君津市)城主に封(ほう)ぜられました。忠直には利直・数直・之直(ゆきなお)の3子があり、利直が久留里を継ぎ、数直・之直は旗本になり、次子数直が土浦藩土屋氏の祖となります。
享保15年(1730)、藩主陳直は岩間陣屋(じんや)を訪れました(4月28日~5月3日)。その時の遊行記が「常州岩間紀行」です。往路は笠間街道、帰路は瀬戸井街道、途中の風物の描写に歌を折り込んでいます。岩間には3日間の逗留(とうりゅう)で宿泊は陣屋でした。府中(石岡)にて小休止、立ち並ぶ市や国分寺を遥かに「法(のり)の道あまねかれとて国々にわかち置きけん古寺の場」と詠み宿舎の陣屋へ向かいました。岩間陣屋は下村(下郷)の南端にあり、府中・笠間街道に面し、八幡(はちまん)神社(六所神社)の北側です。敷地面積一町歩に及び、街道から入ると高札があり、長屋門・役所・入母屋造瓦葺の母屋・土蔵等があります。中庭には築山が築かれ、奥の木立には祠(ほこら)、周囲は竹垣で囲まれ、参道側には裏門があり、敷地内には二反歩程の菜園もありました。北条・小田(つくば市北条・小田)の陣屋と比べると規模が大きく、「岩間役所」ともよばれ、農民の訴状や願書を受付けていました。
翌29日は快晴、努めて徒歩で青い山々を遠望し、曲がりくねった坂を登って愛宕山へ向かいました。江戸時代には愛宕神社は朱印地三石が与えられ、土屋氏の祈願所でもありました。陳直は奥方の忌中(きちゅう)なので神社への直接の参詣を遠慮しています。その後漸(ようや)く難台山に到着。眼下に愛宕山、東南に水戸・鹿島が遠くに見え、笠間の城・宍戸の邑(むら)は手に取るように見え、北方を遠望すると陸奥の山々、西には黒髪山、中禅寺の山が遥かに見えます。ここに暫く足を休め、下ると谷川があり「はるばると山路越へ来て誰もみなつかれてむすぶ谷の下水」、また一面に咲く卯の花を見て「時ならぬ雪かと見るも涼しくてわくる山路の谷の卯の花」と詠じました。下山して滝入り不動を訪れ、祖父数直がここに立ち、不動尊を安置するに絶好の場所と称賛して、石仏を彫り滝の元に安置したとあります。現在この石仏は所在不明です。この後宿に戻り、翌日は八郷を通り北条に宿し、翌々日土浦の城に帰りました。
(市史研究員 萩野谷洋子)
![]() 文政年間ごろの岩間陣屋 ![]() 宍戸朝重供養碑と五輪石塔 |
77.寺崎集落の広業堂東にある「殿様の墓」
笠間高等学校東側の道を北へ向かい、国道50号を越えて寺崎集落内の道を左に進み、左前方に見える深緑色の地区消防分団の建物方向へ折れた先に広業堂があります。その東側は同集落の共同墓地です。今回は墓地内の「殿様の墓」と呼ばれる墓碑に絞って紹介します。
「殿様」とは、今から約400年前、笠間氏の有力な家臣で同集落の字(あざ)竹下の地に館を構えたと伝えられる寺崎氏です。天正18年 (1590)笠間城主笠間綱家(つないえ)が豊臣秀吉の小田原討伐に絡み本家筋の宇都宮国綱に攻められ、笠間氏は滅亡しました。寺崎館の主寺崎信元 (出羽守)は、新たに水戸城主佐竹氏に仕えました。関ヶ原合戦後の慶長7年 (1602)佐竹義宣(よしのぶ)は羽後(うご)久保田 (秋田市)へ国替えとなり、寺崎氏も秋田へ移っていきました。
中国・唐の時代の都長安に倣った平安京の街造り (都と城制) で、天皇の住まいを中心とする大内裏が南面して北端中央に造営されたように、ほぼ四角に区画された同墓地の北の端中央に寺崎氏の墓碑が墓地最上位の地に据えられ、安見・滝田 ・木内諸家の墓碑が東西両側に並びます。「殿様」の墓碑の銘は江戸時代の大名の墓碑に見られない珍しいものです。墓碑は2基あり、当時の館の主と推定される墓碑は高さ104cm、最大幅40mで、頭部左部分が損壊しています。銘は「天正六戊寅年 捐舘光聚院爐香正金居士台霊 三月寺崎出羽守信元刻」と刻まれています。天正6年 (1578)、戊寅(つちのえとら)は同年の干支で、墓碑の主の没年になります。
「捐館(えんかん)」とは「館を捐(す)てて世を去る」、則ち「高貴な人の死」を意味します。「台霊(だいれい)」は下文字と呼ばれる言葉の一つで生前の地位を表し、大名や将軍に用います。「光聚院爐香正金居士(こうじゅいんろこうしょうきんこじ)」が埋葬された人物の法名(戒名) です。江戸時代の大名の法名は 「院殿(いんでん)」や「大居士(だいこじ)」を用いますが、捐館や台霊の文字は見かけません。墓碑の様式から、寺崎信元が父親の法名光聚院爐香正金居士の墓碑を建立したと考えられます。信元の生没年は未確認ですが、文禄5年(慶長元年・1596)の4月、京都・花園の臨済宗妙心寺派の本山妙心寺前住持(さきのじゅうじ)南化玄興(なんかげんこう)(1538~1604)より「安名」の道号が信元に授けられています。
もう一方の墓碑は高さ62cmで、妙頭(みょうくう)部と右肩部が損壊しています。法名 「□□室空大姉淑霊」 、没年が 「天正十三乙酉(きのととり)年八月二十六日」とあります。□□は墓碑が損壊しています。「淑霊(しゅくれい)」は 「貴人の婦人」の意ですので、「光聚院」の夫人と考えられます。寺崎の地に安見・滝田・横倉・木内・田口・藤井の六姓の家臣が主君である寺崎氏歴代の墓を守るため土着したと伝えられます。
岡倉天心の考えに共鳴して日本美術院の創設に参加し、東京美術学校 (現東京藝術大学) 教授・帝室技芸員を務めた寺崎広業は秋田へ移った寺崎氏の子孫です。明治45年(1912) 1月、木村信義(のぶよし)・武山(ぶざん)父子そして寺崎の人々の協力により先祖の墓碑と対面し大変感激した様子は、寺崎の人々への広業のお礼の手紙から察することができます。
(市史研究員 矢口圭二)
![]() 殿様の墓 ![]() 寺崎広業の手紙 |
78.稲田川
稲田川の本流は福原地区・稲田地区を西から東に流れ、来栖地内で涸沼川に注いでいます。
稲田川の源流は、吾国山の西側にある福原地区の沢と寺口の2つです。沢からは兵道内(ひょうどううち)へ、北関東自動車道の南側に蔵前橋、新蔵前橋があり、さらに北に行くと枕橋があります。この橋は平成4年3月竣工です。 寺口からは上郷、兵道内、枕へと流れています。昔は、片山橋の西側にある第五用水機場が、この2つの川の合流地点でした。地元の方の話によると「そこに堰(せき)があった」と言われ、中山堰ではないでしょうか。現在は第五用水機場の西側が合流地点になっています。片山橋は、平成3年3月竣工です。ここから、広々とした田園地帯がみられます。昔は片山橋より下流の所で頻繁に洪水が発生したと言われています。中ノ内に上の下橋があり、平成5年3月に竣工です。その橋の西側に平成13年2月に建てられた土地改良事業記念之碑があり、 「平成元年十二月福原上稲田土地改良区を設立し、以来十二年の歳月を経て関係諸機関の指導のもと、総工費十三億七千万円余を投じ、総面積八十五ヘクタール余の圃場が整備された」と記されています。さらに北に伸び、水戸線を越して福原駅の東側で、ゴルフ場(新地)付近にある池から並木、長久保、駅前と流れてきた福原川と合流し、水戸線に沿って流れます。福原駅付近も昔はしばしば洪水がありました。稲田中学校の入口の近くには西口橋があり、平成5年3月竣工です。
元禄10年(1697)「関戸村差出帳下書」〈仮題〉に片山堰、火野口堰、遠下(とおのした)堰、大堰、長町堰、蝿坊田(はえぼうだ)堰などが書かれていますが、現存していません。
稲田の市街地に入り天王橋と更に下流に神田橋があり、この橋の下には鯉が数匹泳いでいます。平成10年に「この汚れた稲田川を何とかして鯉が安心して泳げるきれいなもとの川にならないだろうか」(鯉まつり実行委員長)という願いから、「笠間市まちづくり教室」の稲田班が稲田鯉まつり実行委員会を結成しました。そして、神田自治会の協力と稲田地区の各子供会に呼び掛けて3月28日に試験放流として鯉の稚魚3000匹を天王橋と神田橋の間に放流しました。
さらに下流で稲田の大広・入道・前山・石ヶ崎(富谷稲田線)を流れる稲田沢川と合流します。稲田沢川は石切山脈の山麓を流れ下っています。少し下流に行くと本戸から流れてくる宝川と合流します。下流に行くと、来栖と稲田の境近くに来栖の香林寺という地区があり、そこにいくと高坂堰があります。さらに下流に行くと、 稲田地内の東端のところで大郷戸・飯合から流れてきた川と合流します。下流に行くと、片庭の二所神社の北西を水源とする枝垂川が片庭・箱田・石井の南側を流れ、来栖で合流し、その地点からわずか下流の所に小塙(こばな)堰があります。来栖上郷の水利組合員は、4月初めに集まって水利組合総会を開き、土手の草刈りや川の水を流れやすくするためにごみを取ったりしています。下流の折戸橋は昭和38年1月竣工で、鯉が7、8匹くらい泳いでいます。下流へ行くと新しくできた国道355号笠間バイパスの来栖橋南の信号の北に来栖橋があり、平成18年8月竣工です。来栖橋南の信号を笠間駅に向かって20mくらいのところに見田々橋があり、昭和61年10月竣工です。そして涸沼川に注いでいます。
延享4年(1746)来栖村の「村差出帳」に折戸堰、小塙堰、高坂堰の3つの堰のことが記載されています。
稲田川は、周囲の山地などからの水を集め、貴重な水を地域の住民に供給しています。過去、何度か水害が発生しましたが、河川改修も行われ、洪水による被害が少なくなってきました。
(市史研究員 福島和彦)
小塙堰(笠間市来栖) |
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79.昭和前期に開通した宍戸と友部を結ぶ道
「道路ふれあい月間」に因ちなんで、今回はJR水戸線南側の宍戸駅前通りと友部駅前通りを東西に結ぶ、2kmの道路新設や道路沿いの変遷を紹介します。
昭和12年(1937)1月、宍戸尋常高等小学校(現宍戸小学校)前に宍戸町役場庁舎(現歴史民俗資料館)が落成し、 役場業務が開始されました。当時、友部の人々が役場へ出向くには、水戸坂から大田町を経て旧陣屋を通る道と、大沢から橋爪を経た平町の川沿いの道が主要な道路でした。町当局は常磐線の踏切を渡り、最短距離で往来できれば町民の便利さが増し町全体が発展するという構想の下、新たな道路建設を計画しました。
昭和14年に踏切以西を第一期工事区間として、同庁舎から、やや北方の宍戸駅前通りの平町字殿町を西の起点としました。同地点から宍戸陣屋跡の南側を東方へ進むと、橋爪字古舘(旧陣屋三区)です。同地は周りより少し高く、中世には館がありました。さらに東へ進み、溜池北側を高台へ向けて坂道を造成し、幅は、後に童謡詩人野員6mの砂利道路を完成させました。この坂道は、後に童謡詩人野口雨情(のぐちうじょう)の生涯をもとに創作した映画「雨情」のロケ地に選ばれ、雨情役の名優森繁久彌(もりしげひさや)が坂道を歩いて下るシーンが撮影されました。
坂道を上り詰めた所に「八幡下」の地名表示板があります。 八幡下は国土地理院発行の地図にある地名で、常磐線西側の高台になります。現在、八幡神社は橋爪字花坂の台地南側に鎮座しています。明治中頃まで八幡台西方の字八幡山に祀られていましたが、常磐線の開通で線路の西側に移され、大正期の同線複線化で境内の大半を失いました。氏子や関係者が同社の存続を考え、用地寄付者を頼り、現在地に社殿を新築し遷宮しました。
踏切が中間地点で、残りの友部駅前通りまでの第二期工事が順調に進み、昭和15年にこの計画が完了しました。踏切名は「警察前踏切」です。戦後、自治体警察が設置されましたが、間もなく廃止されました。昭和26年10月に笠間地区警察署となり、宍戸町に警部補派出所が置かれることになりました。派出所は、踏切東側の角地(現友部中学校駐車場)にありました。同42年3月、友部駅前に笠間警察署管轄の派出所が新設され同地に移転しました。
道路南側の広い草地(現中央四丁目)には、昭和28年5月、宍戸中学校(現友部中学校)が新築され筑波海軍航空隊跡の校舎から移ってきました。
現在の笠間市役所の辺りは笠間営林署の所有地で、大田町字当ノ越地内(現中央三丁目)に、宍戸・北川根・大原の三町村合併及び鯉淵村の一部編入後の友部町役場庁舎が昭和33年6月に落成しました。その後、中央公民館 (現友部公民館)・ 友部消防署庁舎が竣工しました。また、友部駅前周辺の区画整理事業が進み、区画内の道路と役場前の道路が接続しました。桐畑が点在する平坦な土地に道路が開かれると道路沿いに住宅や商店が建ち始め、映画館も開館しました。駅前通りの東の起点周辺は、平町地内でした。東方の柿橋へ通じる道路とも繋り、信号機に「平町交差点」と表示されました。
新設された道路は、平成18年(2006)3月から笠間市の市道(友)一級13号線になりました。80余年の間に舗装・拡幅され、歩道も設けられて便利で安全な道路に変わりました。生活道路・通学路であり、緊急自動車が出動する大切な道路です。なお、警察前踏切以東は「まごころ通り」と呼ばれてきました。
(市史研究員 幾浦忠男)
![]() 昭和期の宍戸町(のちの友部町)地図と工事作業員 |
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80.岩間愛宕山の女人禁制
岩間地区のシンボルでもある愛宕山は、関東平野の北東端に位置し、標高305mとあまり高くない山です。京都の愛宕山の分霊を勧請(かんじょう)し、火伏せの神社として常陸国内で広く信仰されました。山頂からの眺望は素晴らしく、自然も文化も盛りだくさんの山です。この山頂には愛宕神社が鎮座し、特に平安時代より神仏混交の山として信仰され、修験者の修行の場としても繁栄しました。修験者であったとされる天狗の人間離れした修行の様子が、地元の村々に伝え話として残っています。愛宕山は修験者の修行の妨げになるとして、女人の入山は禁止されていました。
江戸時代になると愛宕宮を支配していたのは、山麓にあった別当寺愛宕山勝軍寺密蔵院(しょうぐんじみつぞういん)という真言宗の寺でした。岩間下郷不動院の末寺ですが、瓦谷村(現石岡市)の雲照寺の末寺にあたり、引退した僧が隠居する寺だったことがうかがえます。創建等は不明ですが、寛文5年(1665)「泉村検地帖」(菅谷家文書)に「愛宕領密蔵院」と書かれています。境内が一町歩ほどあり、本堂、護摩堂、小天狗社などが建ち、今でも正面と思われる場所には黒門があり、周囲は江戸初期の土塁が回され、歴代の住職の墓塔が多数現存しています。この密蔵院の僧侶は、江戸幕府の宗教政策に対応しつつ中世武家による戦勝祈願から庶民のための火伏の信仰へと変化していきました。
当山が、女人禁制の山であることの証に愛宕神社拝殿前の長い階段 (百カギ) の登り口に「女人禁制」と刻まれた結界石(地図中(1))が建っています。また、そこから西側の女坂といわれる緩やかな石段途中にも「女人禁制」の石柱があり(地図中(2))、ここから境内へ女人の入山は禁止されていました。享保8年(1723)密蔵院の海永和尚は、この現状を憂いて密蔵院のそばに女人堂(地図中(3))を建立し、女人も参詣ができるように計らいました。同10年4月18日から3日間に亘って入仏式が行われた記録が残っています。「女人堂入仏覚」(松崎家文書)によると、初日は本尊(観音像)、二日目は伍代尊(不動明王、降三世(ごうざんぜ)明王、軍荼利(ぐんだり)明王、大威徳(だいいとく)明王、金剛夜叉明王 、三日目は大般若経を女人堂へ納めています。
導師は本寺不動院で、他に30ヶ寺の僧が参列しました。お供は庄屋以下男女200人余、庄屋他5人は大小の刀、または脇差を帯び、長百姓は羽織・袴に威儀を正してお供しました。この祭礼は、見せ物2軒、酒売り30軒、小間物80軒、うどん屋5軒、菓子屋20軒と大変な賑わいだったようです。その100年後、文政10年(1827)の土浦藩土屋家旧蔵の「愛宕山絵図」には「女人だう」(上絵図)と描かれています。今ではその跡地は確定できませんが、愛宕山登り口道路参り坂十字路の右端に「右あたご 左女人堂」の道標が残っています(地図中(4))。この十字路を南へ進み1kmほど行くと密蔵院跡に至ります。きっと古地図が示すように密蔵院隣に女人堂が、存在していたに違いありません。
慶応4年(1868)新政府が神仏分離令を発し、明治2年(1869)に愛宕大権現から愛宕神社となり密蔵院は廃寺、同5年には修験道も廃止されて誰もがいつでも参拝できるようになりました。女人堂創建から300年余り、麓の村々を見守り続けた愛宕山、今年リニューアルされたあたご天狗の森公園を改めて満喫しましょう。
(市史研究員 川﨑史子)
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愛宕神社周辺地図 |
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小塙堰(笠間市来栖)
