笠間の歴史探訪(vol.91~)
91. 筑波海軍航空隊と神風特別攻撃
者67名の「鎮魂(ちんこん)の碑」が建立され、石丸選手の兄が「追憶(ついおく)」を刻んでいます。
筑波海軍航空隊司令部庁舎(笠間市指定史跡) 慰霊碑 |
92. 木村武山の横顔(上)
木村武山(本名 信太郎(しんたろう))は笠間が生んだ日本画の巨匠です。今年は生誕150年の節目にあたり「仏画の武山」と称される木村武山と郷里笠間との関わりについて、地元に残された資料や『いはらき』新聞記事を参考に紹介したいと思います。
武山は人付き合いが良く、話好きと言われて人脈も多岐にわたっていますが、若き武山の朋友に西茨城高等小学校で学んだ塙嘉一郎(はなわかいちろう)、石倉翠葉(いしくらすいよう)がいます。武山と嘉一郎はともに東京開成中学校に進学しました。嘉一郎は大学卒業後、若くして笠間稲荷神社の社掌(しゃしょう)となり、神社はもちろん笠間町発展のためにさまざまに尽力した人物です。翠葉は後に旧笠間藩の『牧野家史』の編纂や笠間郷友会(ごうゆうかい)の主任などを務め、旧笠間藩主牧野貞喜の俳号「風詠堂(ふうえいどう)」の名を受け継ぐ俳人となりました。
昭和10年(1935)、武山が実家の敷地(吉祥院跡地)に大日堂を建立したことは有名ですが、建立過程や武山が地元とどのようなつながりを持っていたかを知る人は多くありません。大日堂建立の構想は、昭和7年に始まりました。当時武山の活動拠点であった東京の画壇関係者、関西方面の関係筋、そして地元笠間から多額の寄附金が集まりました。同年4月の新聞記事は、設計を伊藤平左衛門に依頼し、実地調査は、武山が帰郷する際に伊藤氏を伴い、塙嘉一郎等(北山内)村内および笠間地方の有志も加えて各種打合せを遂げたと報じています。この記事を裏付けるように、大日堂の建設にあたっては大日後援会(大日会)が組織され、北山内村村長の深谷松次郎が会長を務めています。昭和8年の「大日堂用材仮払綴」を見るとそのほとんどが嘉一郎宛となっています。そして同年10月の記事は、武山の高弟が武山邸に滞在し、毎日笠間稲荷神社の大広間にて用材一切の彩色中、と報じています。
同時期頃に、武山が松次郎宛に書いた手紙には、牧野家と石倉翠葉の名前、また全国各地から珍木名材を集めている様子、そして第二期の計画の様子が細かく報告されています。武山は古くからの学友や村長に信頼を寄せて、地域一丸となって大日堂を建立したと言えます。
大日堂の落慶式は、昭和10年10月、高野山大僧正ほか僧侶10余名、県内外の名僧数10名による読経・法話など盛大に執り行われ、引き続きの園遊会は、知事をはじめ地元の名士、画家関係者など1000人を超える人数であったそうです。
時代の波は、次第に日中戦争に進み、日露戦争時に陸軍歩兵中尉まで務めた武山はどのような心境であったでしょうか。昭和14年8月の新聞によれば、武山の肝煎りにより、大日堂で英霊追悼大法要と盆踊り大会が開かれています。村内の遺族をはじめ、歩兵第二連隊長、筑波海軍航空隊少佐、県議、各町村長など多数の来賓を招き、僧侶のしめやかな読経・追善尺八・法話などがあり、その後夕方から追善盆踊り大会が開かれました。盆踊歌謡は稲田の詩人、柳橋好雄が作詞したものです。歌詞の一節に「祖国の御柱(みはしら)、勇士の御霊(みたま)、月もヨーおはきくアレサ山はなれ」とあります。地元には今でも武山からいただいたと伝えられる団扇(うちわ)を所蔵する方が数名います。その団扇の表には、月と蝙蝠(こうもり)が描かれ、裏面には「祖国の御柱、勇士の御霊」と書かれています。どちらも武山の手によるものを印刷し、団扇に仕上げたもので、この盆踊り大会で配布されたと考えられます。また、武山は箱田四所神社に寺内寿一(ひさいち)陸軍元帥からいただいた小刀を奉納しています。
このように地元の視点から武山をみると、郷里とのつながりを強く持ち、笠間の偉大な実業家であった父木村信義の血を濃く受け継いだ側面が浮かび上がります。
(市史研究員 松山京子)
![]() |
![]() |
筑波海軍航空隊司令部庁舎(笠間市指定史跡)

