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笠間の歴史探訪(vol.91~)

91. 筑波海軍航空隊と神風特別攻撃

 昭和9年(1934)8月に霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊(ぶんけんたい)が設立されました。海軍の初等教育班として戦闘機搭乗員を養成する基地でした。開隊式は9月29日に第九格納庫を式場に挙行されました。初代分遣隊司令は三木森彦中佐で、一般兵より採用された操縦訓練生が、三式陸上初歩練習機、九三式中間練習機(赤とんぼ)で操縦訓練を開始しました。その後、予科練習生や少年航空兵が入隊し、基礎訓練が行われました。訓練期間は6か月間で、卒業前の修了試験は三重県の鈴鹿(すずか)海軍航空隊までの往復飛行でした。
 
 昭和12年7月、支那事変(日中戦争)が勃発すると航空機の重要性が高まり、翌年12月、霞ヶ浦海軍航空隊の分遣隊から独立して筑波海軍航空隊になりました。谷田部海軍航空隊(つくば市)や筑波海軍航空隊の分遣隊として百里原(ひゃくりがはら)海軍航空隊(小美玉市)も設置されました。
 
 昭和16年12月8日、太平洋戦争が勃発すると、予科練出身の練習生も増加し、発着・上昇・急降下・旋回等の激しい訓練が行われました。筑波海軍航空隊での操縦訓令を修了した搭乗員たちは、東南アジアの激戦地に配属され、次々に戦死していきました。毎年の修了生の9割以上が戦死しました。優秀な搭乗員を失った軍は、昭和18年ごろから大学を卒業したばかりの飛行予備学生を大量に採用しました。昭和19年秋には、神風特別攻撃作戦が展開されました。特攻作戦の採用について、筑波海軍航空隊の海軍兵学校卒業の操縦教官4名が、その諮問に当たりました。そして、フィリピン戦の特攻に筑波海軍航空隊から25名が選抜され、12月から翌年1月にかけて12名が特攻散華(さんげ)し、8名が戦死しました。
 
 昭和20年2月に筑波海軍航空隊に神風特別攻撃筑波隊が64名で組織されました(後に84名となる)。特攻隊員はほとんどが予備学生で、2月から3月にかけて夜間訓練や急降下操縦等の猛訓練が実施されました。
 
 第一筑波隊17名は、4月6日に鹿児島県鹿屋(かのや)基地から沖縄に向けて飛び立ち、全員が散華しました。以後、第六筑波隊まで55名が5月14日までに散華しました。さらに6月22日に、第一爆戦隊(ばくせんたい)として、筑波海軍航空隊員5名が沖縄の海に散っていきました。第六筑波隊の富安俊助中尉は、アメリカ航空母艦エンタープライズに特攻攻撃を敢行(かんこう)し、空母を廃艦に追い込みました。また、第五筑波隊の石丸進一少尉は職業野球名古屋軍(現中日ドラゴンズ)のエースとして活躍していましたが、筑波海軍航空隊に入隊して特攻を志願し、沖縄周辺機動部隊を攻撃し散華しました。戦後、彼を悼(いた)む友人たちによって映画「人間の翼つばさ―最後のキャッチボール」がつくられました。東京ドームの入り口にプロ野球選手の戦没
者67名の「鎮魂(ちんこん)の碑」が建立され、石丸選手の兄が「追憶(ついおく)」を刻んでいます。
 
 平成11年(1999)6月に、元筑波海軍航空隊員が、戦死した戦友の慰霊碑を建立し、「慰霊の集い」を挙行しました。碑には「筑波海軍航空隊ここにありき」と刻み、「ここに万感の愛惜(あいせき)をこめてその鎮魂を祈り且(か)つ恒久(こうきゅう)の平和を念じてこの碑を建てる」と記しています。慰霊の集いは、毎年平和への願いを込めて厳(おごそ)かに続けられています。旭町の筑波海軍航空隊跡は、現在茨城県立こころの医療センターになっていますが、航空隊当時の面影をよく残しており、貴重な戦争遺跡になっています。
 
(市史研究員 南 秀利)
 
筑波空筑波海軍航空隊司令部庁舎(笠間市指定史跡)
サンプル画像2慰霊碑
 

92. 木村武山の横顔(上)

 木村武山(本名 信太郎(しんたろう))は笠間が生んだ日本画の巨匠です。今年は生誕150年の節目にあたり「仏画の武山」と称される木村武山と郷里笠間との関わりについて、地元に残された資料や『いはらき』新聞記事を参考に紹介したいと思います。

 武山は人付き合いが良く、話好きと言われて人脈も多岐にわたっていますが、若き武山の朋友に西茨城高等小学校で学んだ塙嘉一郎(はなわかいちろう)、石倉翠葉(いしくらすいよう)がいます。武山と嘉一郎はともに東京開成中学校に進学しました。嘉一郎は大学卒業後、若くして笠間稲荷神社の社掌(しゃしょう)となり、神社はもちろん笠間町発展のためにさまざまに尽力した人物です。翠葉は後に旧笠間藩の『牧野家史』の編纂や笠間郷友会(ごうゆうかい)の主任などを務め、旧笠間藩主牧野貞喜の俳号「風詠堂(ふうえいどう)」の名を受け継ぐ俳人となりました。

 昭和10年(1935)、武山が実家の敷地(吉祥院跡地)に大日堂を建立したことは有名ですが、建立過程や武山が地元とどのようなつながりを持っていたかを知る人は多くありません。大日堂建立の構想は、昭和7年に始まりました。当時武山の活動拠点であった東京の画壇関係者、関西方面の関係筋、そして地元笠間から多額の寄附金が集まりました。同年4月の新聞記事は、設計を伊藤平左衛門に依頼し、実地調査は、武山が帰郷する際に伊藤氏を伴い、塙嘉一郎等(北山内)村内および笠間地方の有志も加えて各種打合せを遂げたと報じています。この記事を裏付けるように、大日堂の建設にあたっては大日後援会(大日会)が組織され、北山内村村長の深谷松次郎が会長を務めています。昭和8年の「大日堂用材仮払綴」を見るとそのほとんどが嘉一郎宛となっています。そして同年10月の記事は、武山の高弟が武山邸に滞在し、毎日笠間稲荷神社の大広間にて用材一切の彩色中、と報じています。

 同時期頃に、武山が松次郎宛に書いた手紙には、牧野家と石倉翠葉の名前、また全国各地から珍木名材を集めている様子、そして第二期の計画の様子が細かく報告されています。武山は古くからの学友や村長に信頼を寄せて、地域一丸となって大日堂を建立したと言えます。

 大日堂の落慶式は、昭和10年10月、高野山大僧正ほか僧侶10余名、県内外の名僧数10名による読経・法話など盛大に執り行われ、引き続きの園遊会は、知事をはじめ地元の名士、画家関係者など1000人を超える人数であったそうです。

 時代の波は、次第に日中戦争に進み、日露戦争時に陸軍歩兵中尉まで務めた武山はどのような心境であったでしょうか。昭和14年8月の新聞によれば、武山の肝煎りにより、大日堂で英霊追悼大法要と盆踊り大会が開かれています。村内の遺族をはじめ、歩兵第二連隊長、筑波海軍航空隊少佐、県議、各町村長など多数の来賓を招き、僧侶のしめやかな読経・追善尺八・法話などがあり、その後夕方から追善盆踊り大会が開かれました。盆踊歌謡は稲田の詩人、柳橋好雄が作詞したものです。歌詞の一節に「祖国の御柱(みはしら)、勇士の御霊(みたま)、月もヨーおはきくアレサ山はなれ」とあります。地元には今でも武山からいただいたと伝えられる団扇(うちわ)を所蔵する方が数名います。その団扇の表には、月と蝙蝠(こうもり)が描かれ、裏面には「祖国の御柱、勇士の御霊」と書かれています。どちらも武山の手によるものを印刷し、団扇に仕上げたもので、この盆踊り大会で配布されたと考えられます。また、武山は箱田四所神社に寺内寿一(ひさいち)陸軍元帥からいただいた小刀を奉納しています。

 このように地元の視点から武山をみると、郷里とのつながりを強く持ち、笠間の偉大な実業家であった父木村信義の血を濃く受け継いだ側面が浮かび上がります。

(市史研究員 松山京子)

武山からいただいた団扇(表) 武山団扇(裏)
                  木村武山からいただいたと伝わる団扇【個人蔵】
 


笠間の歴史探訪(vol.81~90)

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