閉じる

読み上げる
  1. ホーム
  2. 観光・文化
  3. 文化・歴史
  4. 笠間の歴史探訪(vol.61~)

文化・歴史

笠間の歴史探訪(vol.61~)

61. 片庭のヒメハルゼミ

 江戸時代の村方の記録に、片庭・ 楞厳寺(りょうごんじ)の裏山や八幡神社境内の林に生息し、昭和9年(1934)12月に国の天然記念物の指定を受けたヒメハルゼミの記録を見つけ、驚きました。

 江戸時代の文化6年(1809)6月、農村部を担当する郡奉行所(こおりぶぎょうしょ)役人の記録に、「片庭村多蝉(おおぜみ)、百姓佐惣次(さそうじ)・又右衛門(またうえもん)裏山にて啼き候」とあります。時あたかも、笠間藩主牧野貞喜(まきのさだはる)が化政改革(かせいかいかく)と呼ばれる政治改革に着手した時期で、江戸時代の村々の記録の中でも特異なことです。それだけに、ヒメハルゼミは笠間藩でも注目されていたと考えられます。

 早速、『新訂原色昆虫大図鑑』(北隆館)を繙くと、太平洋沿岸の生息北限として茨城県片庭とあり、雄の体長は24~28ミリメートル前後、雌はやや小振りで産卵管が長く伸びるとあります。下の写真は雌で、産卵管が鮮明です。これは、笠間市文化財保護審議会委員の安見珠子(あみたまこ)先生が片庭で撮影された苦心の作です。シイ(椎)の大木の高い幹や枝で鳴くことが多いヒメハルゼミは、鳴き声が聞こえても姿を見ることが困難といわれる中で、貴重な作品です。今春刊行となった『笠間市の文化財』にも使用させて頂きました。

 次いで、私のスクラップから、昭和5年(1930)7月27日付け「いはらき」新聞の加藤正世(かとうまさよ)というセミの研究者の寄稿文を探りあてました。その文面で、当時、笠間周辺ではヒメハルゼミを「大蝉(おおぜみ)」と呼んでいたこと、地元の北山内小学校片庭分教場教員であった堀江廣(ほりえひろし)が、大正4年(1915)以降大蝉の調査と保護活動に従事し、その詳細な調査記録を贈られた加藤は感服し、共著の形で学界へ発表する予定と語っています。研究内容を横取りせず、地元研究者を尊重する加藤の姿勢に敬服します。 さらに、明治38年(1905)、谷貞子(たにさだこ)という研究者が「ヒメハルゼミ」と命名、発表したこと、この時期に新潟・福岡・千葉の三県に生息が確認されていたこと、セミの形は細長く、頭部と胸・背部は暗緑色、腹部は褐色で羽は透明であるとし、先の「昆虫図鑑」にまさる説明が加えられています。

 もう一点、地元笠間で注目する資料があります。昭和4年(1929)11月、昭和天皇を水戸市に迎え、茨城県下で実施された陸軍特別大演習の際、笠間稲荷神社社掌(しゃしょう)塙嘉一郎(はなわかいちろう)が作成・献納した『西茨城郡名所旧蹟写真絵巻(にしいばらきぐんめいしょきゅうせきしゃしんえまき)』に「片庭の大蝉」が収載されています。 「コノ蝉ハ椎ノ老樹ニ群棲、一・二ノモノ鳴キ始ムルト一斉ニ鳴キ、ソノ声大トナル。大蝉ノ名ノ起因」と述べています。

 国の天然記念物指定を受ける背景には秘められた物語があり、また多蝉・大蝉の呼び名の由来からは日本人の感性がしのばれます。

(市史研究員 矢口圭二)

 

ヒメハルゼミの生息地(片庭 楞厳寺)
ヒメハルゼミの生息地(片庭)

ヒメハルゼミ(雌)

ヒメハルゼミ(雌)

 

62. 香取小原神社の算額

 友部駅北口から北東へ、大原小学校を目指して、さらに北へ進むと右側に香取小原神社が祀られています。 社伝によりますと、久寿(きゅうじゅ)2年(1155) 、下総国(しもうさのくに)の香取神宮(千葉県香取市) の分霊を迎えて小原・上郷の香取神社と称しました。明治6年 (1873)の社寺改正によって、小原・上郷の鎮守(ちんじゅ)で「小原神社」 となりましたが、のちに 「香取小原神社」と改められました。

 香取小原神社の本殿は、流造銅葺き(ながれづくりどうぶき)の1.5坪の造りで、拝殿は間口3.5間(約6.4メートル)、奥行き2間(約3.6メートル)の入母屋破風(いりもやはふ)トタン葺きの建物です。

 江戸時代に発達した数学「和算」の問・答・術を額に記して神社仏閣に奉納した「絵馬」は「算額」と呼ばれています。

 香取小原神社の算額は、縦3尺 (約91センチメートル)、約5尺(約152センチメートル)の板額で、昭和2年(1927)に奉納されています。茨城県内には、18面の算額が現存しますが、うち13面が明治以降の奉納です。 同社の算額は、「昭和の算額」と呼ばれ、県内に残る算額の中で最も新しいものです。昭和の初め頃まで、和算を研究する人たちがいたことが分かる貴重なものです。

 願主は小原・原坪の光又柳見斎(みつまたりゅうけんさい)で、珠算講習会会員18名が考えた算問25題の円・三角・四角・ひし形など幾何学的(きかがくてき)図形が描かれ、計算問題と解答が漢文で書かれています。

 光又柳見斎の旧名は白澤寅之介で、慶応2年(1866)に生まれ、原坪の光又家の婿養子となりました。

 寅之介は幼い頃から算数や珠算に興味をもち、長じて明野町 (現筑西市) の廣瀬市右衛門國治に算法を、群馬県の萩原禎助信芳に和算を学びました。この算額には、萩原禎助信芳門人と記されています。なお、光又柳見斎は、のちに小原に珠算講習会を組織し和算の研究をしたといわれています。また、茨城県内の算額を記録した『算法廟堂掲示録(さんぽうびょうどうけいじろく)』を遺しています。

 この算額は、平成3年(1991)に友部町有形民俗文化財として指定され、現在は笠間市指定文化財となっています。

(市史研究員 福島和彦)

香取小原神社の算額
香取小原神社の算額(市指定文化財)
 

 

63.橋爪地内「花坂」のあゆみ

 笠間市の入浴施設のある花坂の地は、橋爪地内の南部に位置し、涸沼川左岸の舌状(ぜつじょう)台地上にあります。縄文時代より人々が生活するのに適した土地で、埋蔵文化財包蔵地(遺跡)になっています。橋爪は明治半ばまで橋爪村でしたが、同22年(1889)宍戸町の誕生により大字橋爪となり、花坂はその小字となりました。

 花坂には、かつて三乗院(さんじょういん)という寺院がありました。今は石仏の隣に、 「無刀齋先生之碑(むとうさいせんせいのひ)」が残っています。無刀齋は江戸後期、地域の人々の教育にあたりました。晩年は江戸に移り住んで、77歳で死去しました。門弟(教え子)たちがその徳行を称え、石碑のの側面や裏面に漢文で師の業績を綴り建立しました。

 明治の中頃、花坂が学校敷地になりました。同27年(1894)に西茨城第二高等小学校の校舎が建設され、校舎前に運動場も造られました。のち宍戸高等小学校となり、同41年(1908)に宍戸尋常高等小学校の高等科の学校となりました。同校は大正9年(1920)、現在の宍戸小学校敷地に尋常科と高等科を合わせた校舎が落成し移転しました。花坂で高等科を過ごした卒業生は、 千人を超えました。学校移転後、校舎は取り払われて公園となり、花見の名所になりました。

 太平洋戦争後に作られた宍戸小学校の校歌には、花坂の地名が採り入れられました。同校は、詩人 ・ 児童文学者で、童謡 「ど こかで春が」 の作詞をした百田宗治(ももたそうじ)に校歌の作詞を依頼しました。来町した百田は学区内を巡った後、校歌の一番に 「春は花坂あげひばり」 と作詞しました。この校歌は、現在も声高らかに歌われています。

 昭和50年(1975)、福祉の町づくりを目指していた友部町は、花坂公園に保養施設を開設します。正式名称は建設地の地名をとり、 友部町老人憩(いこい)の家「はなさか」としました。 その後、 平成17(2005)に全面的に改築し、「いこいの家はなさか」としてオープン。人工温泉をはじめとした様々なタイプの風呂や、大広間・個室が設けられ、子どもから高齢者まで幅広い年代の人々が楽しめる施設になりました。今は「笠間市いこいの家はなさか」の名称で、健康増進のための入浴施設であるとともに、災害時の指定避難所になっています。

 このようにして、花坂の地は江戸後期から現在に至るまで、教育や福祉の拠点の一つとして歩んできました。今、この地へ足を運ぶと眺望が開け、仏頂山まで見渡すことができ、さらに愛宕山から難台山へ続く 山並みが遠望できます。

(市史研究員 幾浦忠男)

 

 

入浴施設のある花坂の台地

入浴施設のある花坂の台地

無刀齋先生之碑

無刀齋先生之碑

 

64.明治時代の岩間八景

 明治42年(1909)、岩間村は、自治・行政、産業、 景勝地などをまとめた『岩間便覧』を発行しました。この頃、近隣町村でも同様の刊行物が出版され、地域の歴史に目が向けられるようになりました。

 その中に 「岩間八景」 の記述がみられます。八景とは、その地方の景色の良い場所を8か所選定し作られたものです。愛宕山、難台山を軸に八か所の景勝地が定められ、それぞれの場所に俳句が添えられています。作者である後藤秦枝(ごとうしげえ)は、もともと笠間藩家老阿久刀川大江(あくとがわおおえ)氏の二男で、明治17年(1884)、愛宕神社支配の密蔵院後藤家の養子となり、先代後藤正名(まさな)氏の後を襲ぎ、愛宕神社、羽梨山(はなしやま)神社、六所神社、近郊6社の社掌を兼務した人物です。桃園(とうえん)の俳名を持つ俳句に長ずる人物で、愛宕神社にある奉納俳句の中に桃園の名がみられます。八景の選定とその場を詠んだ俳句は今もなお岩間地方に残る景勝地と言えるでしょう。

 岩間八景    桃園

 (1)平の落雁 落ち付きし 雁や平 夜の雨
 (旧笠間街道(355号線)市野谷・平の湿地帯に降り立つ雁の群れ、背には愛宕山が聳える。)

 (2)隠沢夜雨 遁れ住む 庵も静夜 春の雨
 (泉城の麓、安産祈願の女人信仰)

 (3)高寺晩鐘 鐘の音も 凪ぎし小春の 夕かな
 (東谷山龍泉院、暮れ六つの鐘)

 (4)遠望霞浦 帰り来る 白帆の上や 夕霞
 (愛宕山頂上より視界壮大、煙雨霞むもよし)

 (5)愛宕秋月 月影や 並びて高き 山の鼻
 (月明に仰ぐ愛宕のシルエットは詩情を誘う)

 (6)長峯晴嵐 晴れて行く 野分の後や 群鳥
 (静かなる山の佇まい、吹く風に長峯沼の小波の風情佳し)

 (7)横関夕照 夕立の 洗いて行し 入日かな
 (横関より難台、愛宕を望む夕焼け、五合田圃郷愁遥か)

 (8)難台暮雪 見る度に 心は寒し 雪の峰
 (南朝の哀史を秘め、 暮雪の難台想い深し)

 また、八景のモデルは、中国の 「瀟湘(しょうしょう)八景」といわれています。わが国では 「近江八景」 「金沢八景」 等が有名ですが、近隣の 「水戸八景」もその名を今に残しています。天保4年(1833)、徳川斉昭(なりあき)が水戸藩領内の景勝地八つを選んだといわれています。各景勝地には斉昭自筆の隷書銘(れいしょめい)を刻んだ碑が置かれています。景勝地を楽しむばかりではなく、藩子弟の心身鍛錬のため、各碑を巡らせるためともいわれています。「巡ると二十里に余れり」としていますので、約80キロメートルといったところでしょうか。

 岩間ライオンズクラブが、昭和60年代に創立15周年記念企画として 「岩間八景」 のパンフレットを作りました。それによるとJR岩間駅を出発して巡ると約20キロメートルの行程になっています。今もその景観は健在ですので巡ってみてはいかがでしょうか。しかし、水戸八景のように、 これといった目印がありません。自分なりの景勝地を選定してみるのも新たな発見になるかもしれません。

(市史研究員 川﨑史子)

岩間八景
岩間八景(岩間ライオンズクラブ発行「土浦藩岩間八景」より)
 

 

65.岩間の枕詞について

 下郷地内 (上町) に鎮座する六所神社境内に「狭隈井之碑(さくまいのひ)」」 があります。

 狭隈井之碑 (読下し)
 衣手の常陸國角障經(つのさはふ)岩間の里に鎮座(おわし)ます六所神社の御殿。一時甚く破荒いたりしかば、氏人等諸相畏みて語い謀り修め奉りしかども、飽かぬ事ともなほ多かり。然るに適々佐久間壽伯主大前仕奉る神官に任されたりしより、専ら己か費を奉出して、先ず朝御食(あさみけ)夕御食(ゆうみけ)に仕奉る。御水取るへき神御井(かみみい)を掘りて、大御饌(おおみけ)仕奉るに事足はし、廣庭に石甃敷列ねて、神幸の通路を安らかならしめ。傍近く宿直所(とのいしょ)を造りて守部を置き、常に其内外を衛らしめ、・(中略)・然れは其ノ事の蹟を後の世まて永く傳へ知らしむべく。 其ノ御井の名を狭隈井と負せて、其ノ縁由を斯は石文に掘り誌し侍るになん。
                                        東京 信田重並撰
                          明治四十五年七月 笠間 齋藤敬正書 氏子建之

とあります。内容は、次のようなものでしょうか。
「一時期荒れていた御殿を氏人らが謀り修めたが、佐久間壽伯が神官を任され、専ら自費で朝夕の御食事、御水を得る井戸を掘ったり、守部を置いて守らせたり、蚕の神を祀ったり、いろいろな事を自らの出費で行い、勤しみ功績を遺した。御井の名を 「狭隈 (佐久間) 井」 として碑を建てた。」

 ところで、碑文のなかに万葉集・風土記などに歌われている枕詞がでてきます。岩間地区では珍しいことなので、取りあげてみました。「衣手の常陸國」は、「常陸國風土記」では以下のように伝えます。「倭武が、東の夷(えびす)の國をご巡幸、新治の県(あがた)を通過した時、国造を遣わし、新たに井戸を掘らせたが、流れる泉が清らかに澄み、感動的な美しさであった。その時に、お乗物を止めて、すばらしい水だと誉めて手をお洗いになったところ、御衣の袖が泉に垂れて濡れた。そこで袖をひたすという言葉によって、この國の名とし、衣袖(ころもで)が枕詞となった。」

 また、土地の言いならわしに、 「筑波岳(つくばね)に黒雲かかり、衣袖漬(ひたち)の国」(筑波山に雲がかかると雨が降るので着物が濡れる。 ) というものもあります。

 「角障經(つのさはふ)」については、 万葉集巻二 ・ 一三五に、「角障經石見之海乃言佐幣久辛乃埼有伊久里尓會深海松生流荒磯尓會玉藻者生流 (以下略)」があり、その意は、「角障經石見(いわみ)の海の言さへく辛の埼なる海石(いくり)にぞ、深海松生ふる荒磯にぞ玉藻は生ふる。 」 辛の埼歌碑は、柿本人麻呂の歌碑で、島根県江津市・浜田市にあります。角の浦、高角山など江津が一望できるところだそうです。

 角障經、これを受ける人名・地名は「いは」を共有しているので、「岩」の意を介して続く万葉集中の五つの例がすべて「角障経」を「石」・「岩」の頭に使用していることから、「石」・「岩」につく枕詞で「角障經岩間の里」の角障經は岩間につく、「角障經石見」は、石見につく枕詞であることが分かります。

 身近にある碑など、 たまたまに覗いたところ、思わぬ発見がありました。

(市史研究員 松本兼房)

狭隈井之碑
狭隈井之碑
 

 

 


 

笠間の歴史探訪(vol.51~vol.60)

 

問い合わせ先

このページに関するお問い合わせは生涯学習課です。

〒309-1792 笠間市中央三丁目2番1号

電話番号:0296-77-1101 ファクス番号:0296-71-3220