文化・歴史

笠間の歴史探訪(vol.41~)

41.芭蕉の句碑(一ツ葉について)

 

夏来てもたゞ一ツ葉の一ツかなの句碑が愛宕山神社本殿北側の飯綱神社境内(階段上左側)にあります。
芭蕉の句集『曠野』所収で、貞享5年(元禄元・1688)に現在の岐阜県長良川の山路をたどった時に詠んだものです。
芭蕉没後百回忌に、茨城町野曽の佐久間青郊によって建てられました。(実際には佐久間家が類焼で全焼したため、2年後の寛政7年・1795-・建立となる。)

ところで「一ツ葉」とは、どんなものなのでしょうか。植物図鑑では、ウラボシ科の常緑多年生シダ。1枚づつ直立、暖地の山野に自生し観賞用としても栽培されていました。漢名は、石韋(せきい)。韋とは(なめし・そむく意)漢方薬での生薬名。『農本』の中に収載されています。過去には利尿・治淋薬として用いられていました。
別名は大葉石韋・飛刀剱・石皮・ひとつば(石韋)とあります。今では愛宕山に「一ツ葉」は無いそうです。

佐久間青郊の『三百六十日々記』(寛政5年元旦から12月19日まで)には、碑の建設に際し、一つ葉について調べた記録があります。3月18日のところに、

  雨。『一ツ葉』の不審晴れる。

夏来ても只一ツ葉の一ツかな此句の弁知らず。人も知りがたし。医書を開くと、『石韋ヒトツバ山中ノ石ノ上ニ生ズ。長一尺余。毛アリ黄毛也。ヒロサ一寸アマリ。裏ニ毛アリ黄毛也。此草ハ深山ニアリ。人ノ声水音ノ響聞コユル可ノ所ハ薬力ウスシ。』

とあります。
古書『神農本草経』は、中国最古の医学書で、薬草について詳しく書かれています。神農とは、中国の伝説上の帝王です。

この外、笠間市には芭蕉の句碑が2つ有ります。

○  笠間稲荷神社・藤棚下

 しばらくは花の上なる月夜かな

○  玄勝院

 古池や蛙飛び込む水の音

 (市史研究員 松本兼房)

『芭蕉俳句』の画像
句碑

『一ツ葉』の画像

一ツ葉

 

 

 42.元笠間市立美術館

 

「閉館し久しき市立美術館 在りしながらの格子窓みゆ」
 閉館した笠間市立美術館の建物は、佐白山ろく公園内に往時の姿のままひっそりと保存されています。同館の設立には次のような事情がありました。
終戦後間もなく、笠間町長の根本政太郎(後に笠間市名誉市民)は、これからの笠間町を「文化と芸術のまちづくり」の構想から、昭和25年(1950)に笠間町立美術館を創設しました。

 美術館の建物は、明治33年(1900)に明治天皇が行幸されて、宿泊された西茨城第一高等小学校の校舎が、国の特別史跡(()在所)として保存され、戦後史跡が解除されたので、この二階建ての校舎を活用しました。

 同館の美術品には、近隣市町村の当時の国宝仏像を直接石膏で型どりをして安置しました。このコピー仏像は、その後「文化財保護法」により、同手法ではコピーが出来なくなり、笠間の石膏仏像は日本で唯一の作品です。開館式は11月1日に彫刻家平櫛田中の揮毫()による看板を掲げ、開眼供養には東大寺官長の北河原公海大僧正の導師で盛大に行われました。

 その後、常土社会員の筆による15点の笠間の歴史画や奈良薬師寺や兵庫県鶴林寺の仏像も加えられました。そして町営の美術館として世界の美術年鑑にも登載されました。運営では菊まつりの菊人形入館料と共通券にしたり、各種展覧会を開催もしました。昭和33年市立になりましたが、同36年に入館者の減少と諸経費などで閉館になりました。

同館は、明治中期の建物で、教育、天皇の御座所、国史跡と歴史が刻まれ、戦後の笠間のまちづくりの根幹の役目を果たしました。新笠間市の市民憲章に「歴史と文化を大切にし、豊かでうるおいのあるまちに」がありますが、同館の存在はその原点です。北茨城市五浦の六角堂と同様、笠間市でも長く保管されることを願っています。

     (市史研究員 小室 昭)

『元笠間市美術館』の画像 

元笠間市笠間美術館(笠間市ふるさと資料館)

 

43.宍戸朝重供養碑

 

笠間市住吉の教住寺脇の共同墓地に宍戸()供養碑があります。宍戸氏、上野氏の子孫が建立したもので、傍らに3基の五輪石塔が並んでいます。
宍戸朝重は、の嫡男として鎌倉時代末期の徳治元年(1306)に生れ、貞治2年(1363)に57歳で波瀾の生涯を閉じました。鎌倉幕府の滅亡、建武の新政、南北朝争乱と激動の時代でした。この混乱期に宍戸氏は、小鶴の西半分(旧友部・岩間町域)を領有し、荘名も宍戸荘に変えてしまいました。
朝重は、史料や宍戸氏系図には、朝朝家とも記載されています。元弘3年(1333)5月、足利に従い、京都の六波羅探題攻めに加わり、鎌倉幕府滅亡に功をあげました。醍醐天皇の新政は、公武二元的な機構で、公家を優遇したため、武家の反発が強くなっていました。

建武2年(1335)7月、旧鎌倉幕府執権北条高時の遺児時行が、新政に叛旗をひるがえし鎌倉を占拠しました(中先代の乱)。京都にいた尊氏は、後醍醐天皇の許しを得ないで鎌倉に向い、北条時行を破り鎌倉に居座りました。後醍醐天皇は、尊氏の謀叛の疑いありとして、新田義貞を将とする追討軍を派遣しました。尊氏は新政に不満を抱く関東武士を糾合して、箱根竹の下で新田軍を破り、敗走する義貞を追って入京しました。しかし、新田軍・北畠顕家軍と京都市中で戦い敗北して九州まで逃れました。九州で勢力を挽回した尊氏は、再び京都を目指し、兵庫湊川で楠木正成を敗死させ、院統上皇を擁立して(北朝)政権を握り、建武式目を制定、室町幕府を開きました。

宍戸朝重は、佐竹義貞らと尊氏の元に馳せ参じ、箱根・京都・九州・湊川と転戦し、かずかずの軍功を挙げ、恩賞として、従五位上・安芸守に叙任され、安芸国荘(広島県高田郡)を賜りました。朝重はここに()を築き、安芸宍戸氏の祖となりました。五龍城の西には毛利氏の郡山城がありました。

足利尊氏の与力として活躍した宍戸氏は、宍戸荘を支配し、貞和2年(正平元、1346)、安候郷内の住吉に教住寺(時宗)を建立し、また、湯崎城を築きました。朝重の4人の子供は、鎌倉府の奉公衆・御所奉行として鎌倉公方の信任厚く、宍戸の名を関東に轟かせました。

(市史研究員 南 秀()

 『宍戸朝重供養碑』の画像

 住吉共同墓地の宍戸朝重供養碑

 

妙行院

 

県道43号(通称川根街道)を岩間駅から7キロ進むと下安居集落に至り、右手の小高い白壁に囲まれた天台宗妙行院の本堂の屋根が見えてくる。白壁に沿って右に折れると山門(薬医門)があり門前に「天台宗案智山妙行院法音寺」と刻まれた石柱が立つ。境内に入ると左に鐘楼、右手に観音堂、その奥正門に本堂、その左に庫裏が建つ。入母屋・銅板葺の本堂には本尊阿弥陀如来像が安置されている。
妙行院は、寛永年間(1624~43)安居村の草分けの1人、柏原兵部が、屋敷内に小さな庵を建て道心者を置いたことに始まる。

正保3年(1646)の検地の際に、兵部の弟が出家して庵を明生院と改め法名を光慶と称し、除地(無年貢地)の扱いを受けた。柏原家は後に久保田姓に変わる。
貞享3年(1686)、光慶から数えて4代目祐存が明生院を現在地に移し、幕府より正式の寺院として認められ、小鶴村(茨城町)如意輪寺の末寺となり、案智山妙行院法音寺を名乗る「三ツ寺」の寺格になった。祐存は中世の木植(桜川市)城主中原将監の子孫で、権大僧図・竪者・法印という天台宗の高い地位にあった。妙行院の中興開山と崇められ、石塔には「中興」の二字が刻まれている。祐存は如意輪寺より上安居・下安居など四カ村の檀家を引き受けて、檀那寺としての地位を築いた。また寺小屋も開いている。
下安居集落には、新仏の安楽往生を祈って、盆行事として「灯籠念仏」が伝えられ笠間市文化財(民俗)の指定をうけている。妙行院に属する念仏道場の千日堂で、寛文年間(1661~72)より行われてきたもので、現在は毎年8月14日夜に行われている。

千日堂に集合した念仏衆が行列を組んで妙行院へ向かい、本堂前で傘揃いして、「寺々の香の煙は細けれど、天に昇りて黒煙となる」と御詠歌・念仏を唱える。
その後、念仏衆は新仏の遺族が招かれている千日堂へ戻り、その年の新仏の霊を一堂に集める「寄せ念仏」を行う。この行事の時に奏される音曲は、夏の夜新仏の霊を鎮めるかのように静かに流れていく。この盆行事は太平洋戦争後は中断していたが、伝統行事保存の声が高まり、昭和50年(1975)に保存会が発足して復活させた。
現在は会員の高齢化が進み、公民館行事として受け継がれている。

(市史研究員 萩野谷 洋子)

『妙行院』の画像

妙行院

 箱田四所神社

笠間市街地から石井神社西を通り、国道50号を渡って主要地方道宇都宮笠間線を北西へ進むと、右手に真言宗金剛寺に隣接して箱田四所神社の入口である石鳥居に辿り着く。細い参道と石段を登り詰めた小高い丘陵、宮後古墳群の域内に旧笠間藩領内の四所の宮の一社である同社が鎮座する。

祭神は天太玉命といい、本社は現在の奈良県橿原市に祀られる太玉神社である。天太玉命は記紀神話の天岩屋戸の場面に登場し、忌部(斎部)氏の祖先といわれる。古代の大和政権の中で中臣氏(のち藤原氏)と共に祭祀を担当した。大化改新後、中臣氏が勢力を伸ばす中で忌部氏は次第に政権内でその基盤を失っていった。

『茨城県神社誌』・境内に建つ昭和27年8月、講和条約締結後の記念事業完成の『記念』碑碑文と市域に残る記録等を基に、同社の歩みの概略を辿ってみる。
まず、社名は江戸時代の地元史料では、箱田大明神の呼び名が多い。次に同社の創建は、『神社誌』や『記念』の碑文は大同2年(807)9月15日に本社より祭神を勧請・創建したといい、現在の本殿は江戸時代の正徳4年(1714)の造営とある。

しかし、文化11年(1814)に同社神主大里伊勢の著した「殿様御直筆御額等ノ事」には、(1)正徳2年9月、当社が再建されたが、棟札がない。(2)享保3年(1718)9月再建時の棟札の表に「遷宮奉ル箱田大明神本殿造り替え成就、神主大里市正藤原守延」、裏面に「願主両箱田村氏子中」・「大工棟梁 上箱田村菊地伝左衛門・羽黒桜井伊左衛門」とあり、現本殿が享保3年の造営である事が明らかになる。

現在、本殿正面の上方に、文化2年(1825)8月、牧野氏笠間藩3代藩主牧野貞喜の親筆になる「箱田大明神」の神額が掲げられている。大里伊勢の記録と神額の下付および掲額の経過を綴る貴重な史料である。

(市史研究員 矢口圭二)

 『牧野貞喜親筆の神額』の画像

牧野貞喜親筆の神額


 

笠間の歴史探訪(vol.31~vol.40)

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