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地域おこし協力隊と歩く”まちあるき”

地域おこし協力隊の三上 紀子 隊員が、地域の歴史、街並み、建物などを探索しながら「まちの魅力」を掘り起こす街歩きを企画しています。
名所旧跡に加え、笠間のまちに眠る美しい景観、心和む場所、秘密のスポットなど、地元の人たちが世代を超えて大切にし、誇りとしている地域のさまざまな場所を「まちの資産」と位置づけ、それらを通してまちと触れ合う〈まちあるき〉の活動です。

 

地域おこし協力隊と歩く いなだ里山まちあるき~石と親鸞の里を訪ねて~

※定員に達したため、参加申込の受付を停止しました。
 現在、キャンセル待ちの受付をしています。

まちあるき

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地域おこし協力隊と歩く 岩間まちあるき~民話の舞台を訪ねて~(終了)

笠間市地域おこし協力隊の三上隊員が、地域の歴史、街並み、建物などを探索しながら「まちの魅力」を掘り起こす、まち歩きを企画しました。今回は、歴史上の人物に関わる話や不思議な話など、昔の人の暮らしや功績などをたどりながら岩間駅周辺の民話の舞台を訪ねて歩きました。

日時

令和5年2月4日(土曜日)午後1時15分~3時30分

コース

約4キロメートル
<集合>笠間市地域交流センターいわま「あたご」
   →長屋門
   →不動院
   →六所神社
   →御前塚
   →笠間市地域交流センターいわま「あたご」<解散>

ナビゲーター

笠間市地域おこし協力隊 三上紀子みかみのりこさん + 岩間歴史懇話会のみなさん

 

岩間駅周辺の民話

「いわまの伝え話」(岩間町教育委員会発行)より/再話 高橋協子さん

(1)役場のひいらぎ

むかしな、岩間の上郷は上村、下郷は下村って言う別々の村だった。

その村境にはよ、大きなひいらぎの木があった。

長峰池のあたり、五叉路になってるとこだ。

こうして道が交差するところはよ、辻とも言われてな、あの世への出入り口があると言われていてな、魔物が現れやすいところなんだ。お地蔵さまはよくこういうところにいらっしゃるじゃろ?お地蔵様はそんな魔物から守ってくれるんだ。

ひいらぎもな、魔除けの力があるんだ。ここのひいらぎは十メートルもあって村の人々は神さまの木って呼んでとても大事にしておった。

あるとき、この木に雷が落ちて幹に大きな空洞ができちまった。それでもな、枯れるどころか益々元気になって冬の初めにはいつも純白の花をいっぱい咲かせてくれるんだ。

その空洞にはネコドリ(みみずく)が住み着いて畑を荒らす野ねずみを退治してくれる。

村人たちは益々この神さまの木を大事にした。

そのうちな、この空洞に皆、秘めた思いを打ち明けるようになったんだ。

つらいことやお願いごとがあると、こっそり来てこの空洞のなかに打ち明ける。そうするとみんな心がすっと軽くなったんだと。

ひいらぎはたくさんの人々の秘密を吸い取って語らず、村人たちの心のよりどころになっていたんだな。

時は過ぎて小さな村々が合併して大きな村ができてくると、養蚕など産業も盛んになって鉄道も敷かれ、道路も新しくできた。そしてこの神さまの木、ひいらぎも新しい道路ができるために役場に植え替えられることになったんだ。幹が長すぎて半分の長さに切られてしまったけれど、新しい町を守る魔除けの貫禄は十分だった。そして相変わらずみんなのささやきを聞いてくれていたんだと。

このひいらぎの葉はとげもなくて丸い葉っぱだったから、「これってひいらぎじゃないんじゃないの?」って言う人もいたけれど、いやいや、ひいらぎも人もな、年をとれば皆丸くなるんじゃよ。

そうして、人から聞いた沢山の秘密を誰にも話すことなく、静かに岩間の歴史を見守り続けた神さまの木、ひいらぎは今も語り継がれているんだ。

 

(2)力持ちの文助

むかし、愛宕山のふもとに文助っつう力持ちでとても親孝行な若者がいたんだと。

どんだけ力持ちだったかっていうとな、こんな話がある。

あるとき文助が畑仕事をしていると、大きな地震が起きたんだ。家に居るおっかさんが心配で文助がとんで帰るとおっかさんはちょうど風呂に入っていて、風呂桶のなかでガタガタ震えていたんだと。

「おっかさん!今助けてやっかんな!」

そう言うがはやいか、「えいやっ!」とおっかさんが入っている湯が入った風呂桶をすごい怪力で担ぎ上げて外に助けだしたんだ。それほどの力持ちだったんだな。

 

さてさて、その頃、村では困ったことが起きていたんだ。

村にあるお寺、不動院にはもう長いことお坊さまがいなかった。だから、村でお葬式があると、山向こうのご本寺までお坊さまを呼びに行かねばなんね。それに人が住まないお寺には泥棒も入るし、草もぼうぼう。

村人たちは何度もご本寺に村のお寺に住職さまをおいてもらうようにお願いしたのだが、全く聞き入れてくれるそぶりもない。

その頃はな、愛宕山は成田山よりもお詣りに来る人が多いんじゃないかっていうほどお詣りに来る人が多かった。だから、お賽銭や御供物も多くてとても豊かだったんだ。

それを見たその当代の本寺のお坊さまはな、自分で愛宕神社をお世話して、たくさんの御供物をひとりじめしたくなったんだな。だから、愛宕山のふもとにある村のお寺に住職さまをおいてくれなかったんだ。

それを聞いた村人たちはとても怒った。

「とんでもねえ坊主だ、ちっとこらしめてやっぺ」

そんな声が次々と上がったんだ。

村の名主さまはな、力持ちの文助を呼んで言った。

「明日は愛宕様の祭りだ。きっと本寺の坊さまも愛宕様に登る。若いもんを集めて、待ち伏せしてあの坊さまをちっとこらしめてくれっか」

文助は乱暴することにためらいはあったけれど、悪い坊さまをやっつけるのは村のためだと村の若者を集めて名主さまからされた話をした。

「おう、やるべ、やるべ」

若者たちも本寺の坊さまに腹を立てていたもんだから、話をすぐにまとまった。

 

祭りの日、文助らは参道近くの繁みのなかに隠れて本寺の坊さま一行を今か今かと待っていた。

そして何も知らない本寺の坊さまはお供をたくさん従えて、愛宕神社に登ってきた。

「今だ!それ!」

文助らは棒を振り上げて一斉に繁みから躍り出た。

そして大乱闘になっちまったんだ。

文助は坊さまに殴りかかって大けがをさせたが、返り討ちにあって文助も大けがをした。

そんな騒ぎを聞きつけて、お役人が駆けつけて文助も若者たちもみんな牢屋にぶち込まれちまったんだと。

牢屋に入れられた文助のけがは日に日に悪くなって、ついに牢屋のなかで文助は死んでしまった。一方本寺の坊さまもけががもとでまもなく死んでしまったんだと。

 

その後、ご本寺には新しい住職さまが来て、村の不動院にも新しいお坊さまを呼んでくれたんだ。お寺は昔みたいにきれいに掃き清められ、新しいお坊さまのもとには説法を聞きに村人たちもたくさん集まってきた。

 

だけど、名主さまはよ、とても悲しい気持ちでいっぱいだったんだ。

「いくらあの坊さまが悪い坊さまだからって、若いもんに乱暴を命じるなんてなんてことをしちまったんだ、そのためにあの働き者の文助を罪人にしちまった上に死なせてしまった・・。もうわたしは名主をする資格はない・・」

そう言って名主をやめてしまったんだそうな。

そして、文助の家族や村人たちと力合わせてお寺の境内にひときわ立派な文助のお墓を建てたんだと。

 

「忠建得雄居士(中堅特有居士)俗名文助」

そう刻まれた大きな墓標が今もある。

お寺に行ったら探してみるといい。

 

(3)六所神社と祭礼

十一月上旬の岩間のお祭り、見たことがあっぺ?

お囃子の山車も賑やかだし、獅子舞も出るし、とっても賑やかなお祭りなんだ。

これは六所神社のお祭りなんだけれども、六所、という名前ってどこから来ているのかなって思うよな?

この名前は案外新しくて明治六年からなんだ。それまでは八幡神社と言われてた。

明治になるとな、ひとつの地区にひとつの神社にしなさいという政府からの命令が出てな、村内の五つの神社が八幡神社に合祀されることになったんだ。

古山(こやま)の鹿島神社、大網(だいあみ)の雷(いかづち)神社、新渡戸(にわつど)の稲荷神社、茅生(かよう)の星の宮、室野(むろの)の熊野神社が八幡神社と一緒になることになり、六つの神社がひとつになったから六所神社というんだとよ。

もともとの八幡さま、八幡神社はな、平安時代中期奥州で起こった阿倍頼時の反乱(前九年の役)をおさめるために源義家が奥州に向かう途中、岩間の地に立ち寄り、そこで村人が戦勝を祈願して祠を設けたのが始まりと言われてるんだ。

 

岩間の六所神社の祭礼はな、五社が合祀された祝いに明治六年から始まったと言われてる。

その頃は土俵もあって、奉納相撲も行われていたんだとよ。

明治中頃までは上町、中町、栄町、大網、新渡戸、茅生の地区からも祭りに参加していたそうな。明治末期は大網の山車が解体されてその車輪を不動院の階段から転がして子供らが遊んだことや当時は祭りは十一月六日七日の二日出会ったこと、大正時代、底抜け屋台というのが参加したこと、記録としては残っていないが、むかし古老が話してくれた話、これが今も続いている賑やかなお祭りの歴史なんだ。

 

(4)土浦の殿様と岩間領巡見

土浦の二代藩主の政直公という殿様はな、文武両道にすぐれ、領民を大切にして立派な政治を行った名君だったんだと。

岩間には古くから土浦藩の領地があってな、代々の殿様は愛宕神社を厚く敬ってな、自ら参詣して寄進もしていたんだとよ。

岩間にはな、土浦藩の陣屋があった。府中から笠間への街道沿い、今の六所神社、八幡神社参道の北側のところだ。

屋敷の広さはな、一町歩、(1ヘクタール)ほどもあったんだと。「岩間陣屋」の高札の両側には土塁と土塀に続いて大きな長屋門、そこを抜けると白い土塀に囲まれた大きな入母屋作りの屋敷があった。玄関に向かって右手に井戸、母屋の両側に建物が二棟、庭には物置や

蔵が三棟もあったんだ。そして中庭にはな、小さな小山、築山があって、奥の木立のなかに小さな祠が三つあった。母屋は十部屋、大きな土間、長屋門にも手代部屋や物置もある広さだったんだと。そして屋敷内には二反歩ほどの畑もあって、陣屋の役人が野菜を作っていたんだとよ。

土浦藩には小田や北条にも陣屋があったんだが、その倍以上もある立派な陣屋で、「岩間役所」とも呼ばれ、農民の訴えや願い書を受け付けていた。北側の上宿のはずれには竹垣で囲まれた牢屋敷まであったんだと。

陣屋には代官、郷目付、手付、手代山番がいて、この人たちが年貢の取り立てや農業の勧め、見回りなどをしてたっていう。

 

土浦藩の殿様はな、なんでも岩間の地に特別な愛着を持っていたんだそうだ。この領地に殿様が来たのは土浦藩、土屋の殿様だけなんだそうだ。

この巡見のときにはな、代官が巡見地図を作り、村役人を連れて下見をして、道や橋をなおしたり、掃除をしたり、休憩所となる家は大掃除はもちろん、奥座敷や便所の改修までさせて茶器を用意して最高のもてなしの準備をしたんだと。そして当日は村役人が羽織袴で村境まで出迎えて村内を案内したんだそうだ。

 

三代陳直(のぶなお)公は岩間巡見の紀行文を残している。これをみると、享保十五年の四月二十八日に土浦城を出発して岩間陣屋に着き、二十九日に愛宕神社を参詣してから難台山から周囲を眺め、山を下りて滝入不動の美しさに感嘆して、羽梨山神社を参詣、さらに五月一日に安国寺や滝尻不動を参詣、翌日は十三峠を越えて筑波、千手堂を参詣して北条に泊まり、三日には土浦に戻る、などと書いていて、旅の様子がよくわかる。

 

途中の村々は荷物運びにたくさんの人足を出し、これらの人を加えると、御用人、郡奉行やお供頭など、百人もの大人数による巡見になったんだと。

これだけ見るとただの物見遊山のようにもみえるけれども、領内の実状を殿様がしっかり見ておくためのもので、領民に藩主の力の大きさをみせるため、ということであったそうだ。

 

(5)藤原藤房の石碑

むかし、岩間が常陸の国宍戸荘岩間郷と呼ばれていた頃の話だ。

その時代はな、戦乱続きで人々の心は不安で一杯だった。それで心のよりどころを求めていたんだな。そこで遠くからお坊さまをお迎えすることになった。

でも、まだ開山の寺となる三光院(友部町)はまだ完成していなかったから岩間郷泉の草庵に住まわれることになったんだ。そのお坊さまは、村の人々に熱心に思いやりを持ってお話をしてくれたし、子供たちにも都の面白いおとぎ話や天狗のお話などをしてたちまち村の人気者になって尊敬をあつめるようになったんだとよ。

お坊さまはたいそう学問のある方だったから、遠方からもお坊さまの説法が聞きたいと人々が集まって来たんだと。

 

そのうち、あのお坊さまは京都の朝廷にいて仏門に入られた中納言藤原藤房卿ではないかといううわさがたった。

ある日、お坊さまのお世話をしている村人が都からやって来たという旅人に藤原卿のことをしっているかと尋ねてみたんだ。すると

「もう三十年も前になるだろうかねえ・・・」と旅人は話し始めた。

藤原卿は朝廷で天皇に仕えたお大臣だったんだけれども、当時の権力争いに巻き込まれて都から流されて常陸の国にやってきた。その後、都に戻ったのだが、妻の入水や次々身内に降りかかる不幸に心砕きながらも再び天皇の側で新しい政治の立て直しをはかり、一所懸命進言を続けたのだけれど、認められることはなく、そのまま出家して行方がわからなくなっている、という話だったんだ。

 

村人たちはますますお坊さまを心を寄せた。そしてとても大切にお世話をしていたんだが、病に伏せられ、まもなく亡くなってしまったんだと。

人々はとても悲しんでな、法名、「無等良雄(むとうりょうゆう)」と石に刻んで石碑をたてた。そしてこの数奇な運命を辿られたであろうお坊さまをいと惜しみ、高貴な俗名、「藤原藤房」の名を別な石碑に残すことにしたんだそうな。

この二つの石碑はな、岩間町泉北根、光西寺跡から見つかり、今は愛宕山の麓、藤塚古墳上に納め祀られているんだ。

 

Ⅰ.  仲良しどうぶつ

むかしあるところにネズミとニワトリとネコとイタチが仲良くすんでいたんだと。

ある年のお正月のこと、

「正月だな~、餅食いてえな~」とネコがいいだした。

「じゃあ、ちょっくら下の人間のとこさ行って盗んでくるべえ」とイタチが言った。

「コケッコ、いいねえ~もらってくるべえ」

「チューチュー賛成」

そして鏡餅をうまく盗みだすことができたんだと。

そして二階の部屋に運ぼうと、階段の上から順にネズミ、ニワトリ、ネコ、イタチ、と並んだと。

まんず、小さい鏡餅、

イタチがホイコラショってネコに向かって放り投げた。

ネコがホイコラショってニワトリに、

ニワトリ、ホイコラショってネズミに投げて、

ネズミはホイコラショって二階に上げたんだと。

さあて、今度は大きいほうだ、

「今度は大きいぞ、ホイコラショっ」イタチがネコに

「今度は大きいぞ、ホイコラショっ」ネコがニワトリに、

「今度は大きいぞ、ホイコラショっ」ニワトリがネズミに・・・

だけど、あんまり餅が大きくて小さいネズミは受け取れんかった・・

アッという間に鏡餅、階段ごろごろって転がり落ちて、一番下のイタチの頭にゴンってぶっつかっちまった。

さあ大変

「おおイタイ、おおイタイ」と大騒ぎ。

ネコが素早くすり寄って、「ニャンともない、ニャンともない」イタチの頭をなでたんだ。

ニワトリ、ネズミのそばにすり寄って、「コケッココおまえがココッかしいからだ、おまえがソソッかしいからだ」とたしなめた。

そしてネズミが「チューイが足りんかった、チューイが足りんかった」とあやまって

そして四匹元通り。仲良くみんなで暮らしたと。

 

Ⅱ.  十二支のいわれ

むかし、お釈迦様が動物たちと人間が仲良く住めるようにと考えて、動物たちに「正月元日に私の所に年始のあいさつにくるように」と言ったんだと。

「動物たちが年始に来た順にそれぞれの年の代表にさせて、人間の生まれ年にしてやろう、そうすればこの先もきっと仲良くできるだろう」と思ったんだ。

 

遊び歩いていて、うっかり年始に行く日を聞き損なったネコはネズミに聞いたんだ。

「おしゃかさまのところにいくのはいつだっけ?」

「年始には、二日に来いって言ってたよ」

ってネズミはうそをついたんだ。

 

牛は自分がのろまだからって一日早く出かけたと。ネズミはこっそり牛の背にのって、のんびり旅してお釈迦様の屋敷の門が開くのを牛の背中で待っていたんだ。

門が開いた。

牛は自分が一番だ、と喜んで門に入ろうとしたそのときだ、

牛の背からネズミがぴょんって飛び降りて牛より先にお釈迦様にあいさつをしちまった。

そして、牛、虎、兎、竜、蛇、馬、羊、さる、鶏、犬、猪、の順にあいさつをしたので、それが十二支の順になったんだと。

そして、二日だとネズミに言われて遅れたネコは十二支のなかに入れなかった。

この年始の三番目は犬と虎が一緒に駆け込んできたんだが、お互いに先を争ってけんかになっちまって、虎が犬を蹴り飛ばして大いばりで三番目になって、道に飛ばされて転がっちまった犬はだいぶ遅れてやっと間に合うことができたんだ。でもな、それから犬は虎をとっても畏れるようになったんだと。

だまされて十二支の仲間入りができなかったネコはネズミを恨んで、それ以来追いかけ回すようになったんだとよ。

 

Ⅲ.  お日様とお月様とかみなり様

むかし、むかしのおおむかし、お日様、お月様、かみなり様が三人揃って旅に出た。

歩き疲れた三人は、日暮れにやっと宿着いた。

風呂に入って、酒飲んで、ごちそう食べて、三人は、仲良く枕並べて眠ったと。

明くる朝、かみなり様が起きてみたらば、お日様お月様の姿が見えぬ。

びっくりびっくり、かみなり様は宿の主人に尋ねたと。

すると、宿のご主人、

「お日様とお月様はとうの昔に出発しましたよ」

するとかみなり様、

「ややっ!月日のたつのは早いものだの~」

そして宿のご主人、訪ねたと。

「かみなり様はいつお立ちでございますか?」

かみなり様は空見上げ、

「おれはかみなり。夕立だあ~」

 

Ⅳ.  めでたいな

むかし、このあたりにな、与作っつう正直な男がかみさんと仲良く住んでいたんだと。

ある年の暮れ、

「ほおれ、景気直しだ。正月にはこれで福茶たてて飲むべえ。これで来年は景気がいいぞ」と与作が新しい土瓶を買ってきた。

そして、正月、福茶をたてて、神棚に供え、夫婦仲良く飲んでいたんだと。

そこへ隣の主人が新年の挨拶にやってきた。

「おめでとうござんす。旧年中はお世話様になりやした。本年もどうぞ相変わりませず」と丁寧な挨拶をした。

与作は「まあまあ、福茶でも一服どうぞ、一服」と湯飲みを出してきた。

かみさんは茶葉を換えようと流し場に立った。

与作が「ほれ、早くしろ、おめえはほんとのろまだなあ」というもんだから、慌てたかみさん、うっかり土瓶を落として割っちまった。

「ガッシャーン」

「なんだ!正月早々、せっかく景気直しに買った土瓶を割りやがって!縁起でもねえ」とこぶしをふりあげた。

与作はもともと温厚なたちなんだが、お客さんの前で正月早々そんなことがあって、つい、かっとなったんだっぺなあ

そのときだ、隣の主人が土瓶のかねのつるを拾い上げ

急に歌いながら踊り出した。

「はあ~めでたいな、めでたいな、ドンとヒンがまっぷたつ~貧乏神を追い払い~残るはかねのつるばかり~。正月早々めでたいな~七福神も舞い込んで、めでたいな、めでたいな」

与作とかみさんも吹き出して、隣の主人と踊ったと。

「はあ~めでたいな、めでたいな、正月早々めでたいな」

 

Ⅴ. 不思議塚

ずっとむかし、泉北根にとても広い光西寺というお寺があったんだと。

ある年の夕暮れ時、寺の法主さまに会いたいと三人の供を連れた旅僧の一行が訪ねてきたんだと。なにやらいわくありげなその一行は客人としてそのまま寺に住み着き、そのまま数年が過ぎ、三人の供は去って、僧が一人残されたんだとよ。

そして法主さまのはからいで、村役の娘が身の回りの世話をすることになった。

健康で美しく、気立てもよいその娘は朝夕と心を込めてお仕えをし、やがて二人の間にはほのぼのとした愛情が育ち、二人は結ばれたんだと。

やがて女の子が生まれ、「君代」と名付け、旅僧は法衣を脱ぎ捨てて、塚に埋めると、俗世に戻って農夫となり、親子三人仲良く暮らしたんだそうな。

 

しかし、その喜びもつかの間、君代はふとした病がもとで幼い命を落としてしまったんだ。

二人は嘆き悲しんで、寺内に塚を築いて姫塚と呼び、幼い君代の霊を慰めようと毎日読経に明け暮れる日々を送ったんだそうだ。

 

時は流れ、広大な広さを誇った光西寺も廃寺となり、伽藍もなく寺名だけ残るのみとなったんだと。

やがて明治の世となり、ある農夫が寺内を開墾していたときだ、毎晩夜になると、姫塚の周りを青白い光が右へ左へ・・ふーらふーら飛ぶんだ。

びっくりしてしばらく開墾をやめたら、その光は飛ばなくなった。

でも、また開墾を始めると、その光は現れる。

それで、不思議な塚、不思議塚、と人は呼ぶようになったんだそうだ。

 

問い合わせ先

このページに関するお問い合わせは企画政策課です。

〒309-1792 笠間市中央三丁目2番1号

電話番号:0296-77-1101 ファクス番号:0296-77-1324

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