武山を知る
笠間と木村家
武山は明治9(1876)年7月、旧笠間藩士である父・木村信義と母・しゆん(しむ)の長男として、西茨城郡北山内村大字箱田(現在の笠間市箱田)に生まれました。
本名は信太郎。
父・信義は、近代笠間の経済と産業に尽くした実業家で、笠間銀行の頭取や笠間電気株式会社の社長を務めたことから「笠間の渋沢栄一」ともいわれました。
武山は、幼い頃から絵を描くことが好きで、その才能を見抜いた父・信義は、南画家の桜井華陵を2歳の頃に自宅に迎え、絵を習わせました。
岡倉天心のもとで
武山は明治24(1891)年に東京美術学校に入学し、当時、東京美術学校の校長で、日本の美術を守りながらも新しい時代にふさわしい日本画を制作するために活動していた岡倉天心から薫陶を受けます。
明治31(1898)年に天心は、横山大観や菱田春草、下村観山らとともに日本美術院を創設。
武山も創設当初は副員として参加し、新しい時代の日本画を築くための活動に力を注ぎました。
当時の日本美術院の新たな表現は、大きな注目を集める一方で当時の美術界に必ずしも受け入れられたわけではありませんでした。
輪郭線を目立たせず柔らかな色彩で表現する「朦朧体」や「没線描法」などの新しい画風は、大きな議論を呼び、厳しい批判にさらされることもありました。
その中でも武山は、「没線描法」を自分なりに消化し、立体感のある柔らかで臨場感のある表現を生み出していきました。
明治39(1906)年、天心は活動の拠点を北茨城市の五浦へ移します。
太平洋を望む豊かな自然に囲まれた五浦には、日本美術院の画家たちが集い、新たな制作活動を展開しました。
武山も一家をあげて拠点を五浦に移し、のちに数々の代表作が五浦で生み出されることとなりました。
笠間に残る武山の作品
県内外の美術館などに所蔵されている武山の作品はごく一部で、多くは個人の所蔵であるとされています。
市内の笠間公民館や笠間稲荷神社、木村家の菩提寺である月崇寺などには、武山が手がけた作品が残されており、地域の貴重な文化財として大切に受け継がれています。
こうした作品は、郷土が生んだ芸術家の功績を身近に感じられる存在となっています。
生誕150年の節目を迎えた今、改めて市内に残る作品やゆかりの地を訪れてみてはいかがでしょうか。
作品に込められた想いや、武山が歩んだ人生をより身近に感じることができるかもしれません。
※月崇寺では一般公開は行っていません。













