小原の保呂輪神社に残る源義家伝説
保呂輪神社は、笠間市小原字山中の林の中に鎮座しています。
友部駅北口前の県道杉崎友部線を水戸方面へ進み、小原集落に入る手前で左折し水田に沿った道を250メートルほど進むと明神鳥居の前に着きます。
参道を進み石段を上りきると、随身門を思わせる神門が建っています。
切妻造トタン葺きで、棟に佐竹氏の家紋「五本骨扇に月丸」が付いています。
佐竹氏の勢力がこの地まで及んでいたと考えられます。
神門をくぐると、正面に切妻造瓦葺きの拝殿があり、その内部に本殿を納める独特な構造になっています。
同社については、昭和二十七年(1952年)に発刊された『吾れ等が郷土 大原村』(以下『大原村』)に由緒ある神社として詳しい記述があり、町村合併後に発行された『友部町百年史』や『茨城縣神社誌』などにも紹介されています。
同社の創建や祭神について『大原村』に、往古三白入道が神護景雲二戊申年出雲国大社の祭神である大己貴命を当地に勧請して茨の神と称した、とあります。
奈良時代の神護景雲二年(768年)に創建された古社で、大己貴命は大国主命の別名です。
さらに、経津主命(香取神宮の祭神)、武甕槌命(鹿島神宮の祭神)を加えて三柱を祭神としています。
平安時代中期、陸奥国北部でおこった安倍氏の反乱(前九年の役)を平定するために、武将の源頼義が陸奥守(のち鎮守府将軍兼任)に任じられ下向しました。
実際には、永承六年(1051年)から康平五年(1062年)までの十二年に及ぶ戦いでした。
頼義の長子源義家は、京都の石清水八幡宮で元服したので八幡太郎と称し、父に従い奮戦し武将の名声を高めました。
室町時代に小原の地を治めた里見氏は、保呂輪神社を小原城の守護神として崇敬しており、その記録が残されています。
『友部町百年史』や『茨城縣神社誌』によれば、源義家が奥羽の乱を平定するに際して営旅の館を建て、神社に城の一字を加えて茨城の社と称した。
また、烏羽乱之神を三七日間熱願して幌内に勧請した。
よって保呂羽之神と号した、と記されています。
「ほろわ」について調べると、茨城県内に保呂羽神社や保呂和権現があったり、縨輪という地名があったりします。
義家は小原の古社に駐留した後、大勢の兵士を率いて北方へ行軍し、笠間市大橋で地元の武士団と戦いました。
後に、義家軍の陣営跡を「旗鉾」と呼ぶようになりました。
その後、同市池野辺の山を越える途中、同地に留まった時に義家にまつわる地名や苗字がつけられました。
地元の人々は、義家から戴いた杯を御神体として祀る八幡神社を守り伝えています。
父頼義没後の永保三年(1083年)、義家は陸奥守兼鎮守府将軍として再び常ひたちのくに陸国を経て任地へ赴きました。
後三年の役(1083年から1087年)を平定した帰路も当地方を通過したので、源氏の影響力が東国に根を張り、義家にまつわる地名や伝説などが各地に残っており現在も語り継がれています。
(市史研究員 幾浦 忠男)
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