伝統・文化
【笠間歴史探訪】「安候駅家」推定地
- カテゴリー:
- 伝統・文化
- 再生時間:
- 2分11秒
- 2020.01.27
笠間の歴史を探るシリーズvol.5
JR岩間駅から東へ7キロメートル、常磐自動車道の高架橋をくぐると、そこは笠間市安居地内。昔から八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)が奥州征伐の帰り道、焼き討ちをしたといわれている「あずま(持丸)長者伝説」がある場所です。その畑からは焼き米が大量に出土し、古代道が通り、「安侯駅家」があったといわれています。
今から1300年前の奈良・平安時代の頃、蝦夷(えぞ)討伐のため中央と地方を結ぶ「駅路(うまやじ)」が整備され盛んに兵士が兵糧(ひょうろう)等を運ぶため利用していました。この古代道には、16キロメートルごとに駅家が設けられ朝廷から派遣される使者の宿泊施設や乗り継ぎの馬などが用意されていました。安侯駅家のあった駅路は、都から常陸国府(石岡市)までの東海道を延長し、陸奥国(現在の東北地方)へ行くために造られた常陸国最古の主要な道路でした。
平成10年、五万堀古道(長兎路)の発掘調査により10m幅の直線道路が発見され、8世紀前半に造られたことが判明しました。その延長上に位置する安居地内も古代道が通っていたことが確実となりました。翌年、安侯駅家推定地より南へ500mの民家の庭から「騎兵長十」と書かれた墨書土器(ぼくしょどき)が出土し、確かに古代道が通り、兵士がこの地を行き交う駅家の存在が改めて証明されました。その後、本格的に周辺の学術遺跡調査が行われました。駅家としては珍しい「版築基壇(はんちくきだん)」という礎石建物跡が発掘され、大規模な法倉(米蔵)が建っていたことがわかりました。その他、掘立柱2棟なども発見され、より駅家跡の可能性が大きい結果となりました。
今でも石岡市の一里塚から県道52号線(石岡城里線)を真直ぐ下ると古代道とほぼ同じ道筋をたどることができます。途中小美玉市の「手堤(てつづみ)」の地名は、八幡太郎義家が5万の兵隊を率いて奥州へ向かう時、大雨で池の水があふれて通れないので、手で土をもって土手を築いたところから名付けられたと言われています。そこから岩間地内、農業総合センターへ入ると、転々と古代道跡が残っています。また、吉沼に入る山林には「五万人窪」という地名があり、軍勢五万人がここで雨宿りをしたといわれています。その他八幡神社や腰掛石など多くの伝説が残り、今でも遠いいにしえの栄華を忍ばせています。
※この動画は「広報かさま」で隔月連載している「笠間の歴史探訪」を参考に制作しています。 【笠間市HP】https://www.city.kasama.lg.jp/page/page006389.html
【お問い合わせ】生涯学習課(0296-77-1101 内線383)
JR岩間駅から東へ7キロメートル、常磐自動車道の高架橋をくぐると、そこは笠間市安居地内。昔から八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)が奥州征伐の帰り道、焼き討ちをしたといわれている「あずま(持丸)長者伝説」がある場所です。その畑からは焼き米が大量に出土し、古代道が通り、「安侯駅家」があったといわれています。
今から1300年前の奈良・平安時代の頃、蝦夷(えぞ)討伐のため中央と地方を結ぶ「駅路(うまやじ)」が整備され盛んに兵士が兵糧(ひょうろう)等を運ぶため利用していました。この古代道には、16キロメートルごとに駅家が設けられ朝廷から派遣される使者の宿泊施設や乗り継ぎの馬などが用意されていました。安侯駅家のあった駅路は、都から常陸国府(石岡市)までの東海道を延長し、陸奥国(現在の東北地方)へ行くために造られた常陸国最古の主要な道路でした。
平成10年、五万堀古道(長兎路)の発掘調査により10m幅の直線道路が発見され、8世紀前半に造られたことが判明しました。その延長上に位置する安居地内も古代道が通っていたことが確実となりました。翌年、安侯駅家推定地より南へ500mの民家の庭から「騎兵長十」と書かれた墨書土器(ぼくしょどき)が出土し、確かに古代道が通り、兵士がこの地を行き交う駅家の存在が改めて証明されました。その後、本格的に周辺の学術遺跡調査が行われました。駅家としては珍しい「版築基壇(はんちくきだん)」という礎石建物跡が発掘され、大規模な法倉(米蔵)が建っていたことがわかりました。その他、掘立柱2棟なども発見され、より駅家跡の可能性が大きい結果となりました。
今でも石岡市の一里塚から県道52号線(石岡城里線)を真直ぐ下ると古代道とほぼ同じ道筋をたどることができます。途中小美玉市の「手堤(てつづみ)」の地名は、八幡太郎義家が5万の兵隊を率いて奥州へ向かう時、大雨で池の水があふれて通れないので、手で土をもって土手を築いたところから名付けられたと言われています。そこから岩間地内、農業総合センターへ入ると、転々と古代道跡が残っています。また、吉沼に入る山林には「五万人窪」という地名があり、軍勢五万人がここで雨宿りをしたといわれています。その他八幡神社や腰掛石など多くの伝説が残り、今でも遠いいにしえの栄華を忍ばせています。
※この動画は「広報かさま」で隔月連載している「笠間の歴史探訪」を参考に制作しています。 【笠間市HP】https://www.city.kasama.lg.jp/page/page006389.html
【お問い合わせ】生涯学習課(0296-77-1101 内線383)
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