伝統・文化

【笠間歴史探訪】岩間地内を通る瀬戸井街道の今昔

カテゴリー:
伝統・文化
再生時間:
2分11秒
2022.11.22
笠間の歴史を探るシリーズvol.4

江戸時代の初め、水戸の城下を起点として河和田―鯉渕―住吉―土師(はじ)と現在の岩間街道とほぼ沿った道が瀬戸井(せどい)街道として整備されていました。

この街道は、その先、筑波山参詣のために市野谷―泉―山崎―柿岡―北条―高道祖(たかさい)、また物資の流通や情報伝達の道として、道幅二間(3.6m)と中道ですが下妻―古河を通り、上野国(こうずけのくに)巴楽郡(おうらぐん)瀬戸井(群馬県千代田町)まで続いていました。(結城郡八千代町までの説もある。)

江戸時代になると、庶民の信仰心も広まり愛宕山、筑波山神社などへの参詣に、多くの人々がこの道を利用しました。水戸藩国学者安藤抱琴(ほうきん)は元禄3年(1690)京都への旅の途中、泉村から見える愛宕山を見上げ「いつの世かここに移して白雲の愛宕の山の名を残しけん」と京都白雲寺を思って和歌を詠んでいます。

また、宝暦3年(1753)水戸藩士三橋夕流(みはしせきりゅう)が、友人とともに筑波参詣に行く途中、市野谷から横道に入って愛宕山へ参詣し、物見台から笠間城、水戸城を見渡し賞賛しています。
その後も文化15年に水戸藩学者小宮山風軒(こみやまふうけん)や彰考館総裁立原翠軒(たちはらすいけん)などが筑波山参詣に、文政6年(1823)仙台領の農民阿部林之丞(じょう)がお伊勢参りに、その他越後の算学者山口(やまぐち)和(かず)など、瀬戸井街道について多くの旅人の記録が残されています。

時は過ぎ、幕末元治元年(1864)7月29日、瀬戸井街道沿いの土師村は、天狗党事件に巻き込まれます。住吉村から土師村に追い込まれた田中愿蔵(げんぞう)隊(天狗党)と鯉渕勢は激しい戦闘となり、土師村街道沿いに16件が焼き討ちに遭い、庄屋以下6名が即死、5名が負傷と、甚大な被害をこうむりました。
今もなお、「明神山(みょうじんさん)の戦い」の結果として、土師の淡島(神社には拝殿の北側に焼け焦げの跡が残り、当時の戦闘の激しさを今に伝えています。

平成11年茨城県土木部が「歴史と語らいの道」として涸沼川にかかる船場橋南の駐車スペースに道標と看板を立て、瀬戸井街道の今昔を伝えています。

この動画は「広報かさま」で隔月連載している「笠間の歴史探訪」を参考に制作しています。

【笠間市HP】https://www.city.kasama.lg.jp/page/page006389.html
【お問い合わせ】生涯学習課(0296-77-1101 内線383)
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