伝統・文化

【笠間歴史探訪】宍戸城本丸土塁跡

カテゴリー:
伝統・文化
再生時間:
2分12秒
2019.09.02
笠間の歴史を探るシリーズvol.3
笠間市平町旧陣屋一帯は、江戸初期の秋田氏五万石の城跡です。関ヶ原の戦い後、常陸54万石の大守(たいしゅ)佐竹氏の出羽転封のあおりで、秋田実季(さねすえ)の宍戸入封となりました。
ここは宍戸氏の館でしたが、宍戸氏は文禄年間に佐竹氏により、海老が島(筑西市明野)に移されており、廃館になっていました。

秋田実季は、「宍戸は城もなく、屋敷構え」で、かなり不満を抱いての入封でした。
宍戸城主となった秋田氏の早急(さっきゅう)の課題は、城郭の建設と家臣の屋敷割、菩提寺(ぼだいじ)(高乾院(こうけんいん)・龍穏院(りゅうおんいん))の建立でした。

宍戸城の本丸と北の丸は、土塁と塀で囲み、城門(正門)は西に設けられました。城郭の周囲に家臣の屋敷を配し、持筒組(つつくみ)・鉄砲組・弓組が置かれました。
町屋(まちや)(町人・農民居住地)は、北の大田町、南の平町通りでした。紙漉町(かみすきまち)、肴町(さかなまち)、大工町(だいくまち)も形成されました。大田町通りの北に寺院が並んでいました。
北から高寺(完全寺)・光明寺・浄安寺(のち唯信寺)、水田を隔てて西へ高乾院・円通寺・観音堂・養福寺・高寅寺(こういんじ)、さらに三光院・龍穏院・清水寺(せいすいじ)・新善光寺がありました。

宍戸城は、城下の南を流れる涸沼川、東は友部丘陵、西は諏訪峠、北は北山の森林を城の防衛線としていました。

秋田氏は、正保2年(1645)8月、奥州三春(福島県三春町)に転封となりました。宍戸藩5万石は幕府領となり、代官が支配しました。城郭と武家屋敷は取り壊され、田畑にされました。

江戸中期に、水戸徳川家の分家、宍戸松平氏1万石の陣屋が、宍戸城本丸跡に設置されました。藩庁のほかに、藩校脩徳館・講武所(武道場)も建設されました。

明治になって、水戸線が敷設され宍戸駅ができると、城跡のまん中に道路が通り、民家が建ち並ぶ今日の姿になりました。土塁や堀跡は当時の面影を遺しています。

※この動画は「広報かさま」で隔月連載している「笠間の歴史探訪」を参考に制作しています。 【笠間市HP】https://www.city.kasama.lg.jp/page/page009629.html

【お問い合わせ】生涯学習課(0296-77-1101 内線383)
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