伝統・文化
【笠間歴史探訪】笠間城の下屋敷
- カテゴリー:
- 伝統・文化
- 再生時間:
- 2分12秒
- 2019.05.21
笠間の歴史を探るシリーズvol.1
佐白山の麓にある山麓(さんろく)公園は江戸時代「下屋敷(しもやしき)」と呼ばれていました。笠間城の下方(かほう)にあたるのでそう名付けられ、ここに笠間藩の役所と藩主の居宅を兼ねて御殿が存在しました。 この下屋敷を設置したのは、後に赤穂に移封した城主浅野長直(ながなお)で、江戸幕府が開かれて、約40年過ぎた寛永期末の頃です。
それまでの役所は、佐白山頂から僅かに下がった本丸にありました。多くの家臣が勤務するには狭いだけでなく、毎日山道を通勤するには大変な苦労がありました。
長直は、きめ細かな藩政をするために、城下町に近い現在地に政庁舎を建設しようと、当時この地にあった曹洞宗玄勝院を東側に移転させ、その跡地を造成して、周囲を土塁と白壁の塀で囲み、その中に平屋造の荘厳な御殿を建てました。
長直は下屋敷を笠間城の出城として建設したので、特に幕府の許可は得ませんでしたが、「笠間は新城を建てた」との噂が広がり、幕府から監察使が派遣されることになりました。 長直は新城でない事を示すために、急遽塀を取り壊させ、一夜にして木の枝で作る「粗朶(そだ)垣根」に造り替え、事なきを得ました。
しかし、急場凌ぎの作業のためか、杭柱が逆さに打ち込まれた所もあったので、「下屋敷の逆杭(さかさくい)」という伝説になりました。
以後御殿は、明治4年(1871)の廃藩置県まで230年余の間、笠間藩役所として継承されました。明治5年に御殿が焼失した後は高等小学校、明治天皇の行幸地、郡役所、小林区署、農学校、史蹟行在所(あんざいしょ)と各種の施設の敷地として活用されました。戦後は公園として市民や観光客の憩いの場となり今日に至っています。
今、この地は、緑に覆われゆったりとした時空の中にありますが、身分や格式の厳しい当時は、侍達が職務や立場に応じた様々な人間模様が展開されていたことでしょう。
※この動画は「広報かさま」で隔月連載している「笠間の歴史探訪」を参考に制作しています。
佐白山の麓にある山麓(さんろく)公園は江戸時代「下屋敷(しもやしき)」と呼ばれていました。笠間城の下方(かほう)にあたるのでそう名付けられ、ここに笠間藩の役所と藩主の居宅を兼ねて御殿が存在しました。 この下屋敷を設置したのは、後に赤穂に移封した城主浅野長直(ながなお)で、江戸幕府が開かれて、約40年過ぎた寛永期末の頃です。
それまでの役所は、佐白山頂から僅かに下がった本丸にありました。多くの家臣が勤務するには狭いだけでなく、毎日山道を通勤するには大変な苦労がありました。
長直は、きめ細かな藩政をするために、城下町に近い現在地に政庁舎を建設しようと、当時この地にあった曹洞宗玄勝院を東側に移転させ、その跡地を造成して、周囲を土塁と白壁の塀で囲み、その中に平屋造の荘厳な御殿を建てました。
長直は下屋敷を笠間城の出城として建設したので、特に幕府の許可は得ませんでしたが、「笠間は新城を建てた」との噂が広がり、幕府から監察使が派遣されることになりました。 長直は新城でない事を示すために、急遽塀を取り壊させ、一夜にして木の枝で作る「粗朶(そだ)垣根」に造り替え、事なきを得ました。
しかし、急場凌ぎの作業のためか、杭柱が逆さに打ち込まれた所もあったので、「下屋敷の逆杭(さかさくい)」という伝説になりました。
以後御殿は、明治4年(1871)の廃藩置県まで230年余の間、笠間藩役所として継承されました。明治5年に御殿が焼失した後は高等小学校、明治天皇の行幸地、郡役所、小林区署、農学校、史蹟行在所(あんざいしょ)と各種の施設の敷地として活用されました。戦後は公園として市民や観光客の憩いの場となり今日に至っています。
今、この地は、緑に覆われゆったりとした時空の中にありますが、身分や格式の厳しい当時は、侍達が職務や立場に応じた様々な人間模様が展開されていたことでしょう。
※この動画は「広報かさま」で隔月連載している「笠間の歴史探訪」を参考に制作しています。
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