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笠間の歴史探訪(vol.61~70)

61. 片庭のヒメハルゼミ

 江戸時代の村方の記録に、片庭・ 楞厳寺(りょうごんじ)の裏山や八幡神社境内の林に生息し、昭和9年(1934)12月に国の天然記念物の指定を受けたヒメハルゼミの記録を見つけ、驚きました。

 江戸時代の文化6年(1809)6月、農村部を担当する郡奉行所(こおりぶぎょうしょ)役人の記録に、「片庭村多蝉(おおぜみ)、百姓佐惣次(さそうじ)・又右衛門(またうえもん)裏山にて啼き候」とあります。時あたかも、笠間藩主牧野貞喜(まきのさだはる)が化政改革(かせいかいかく)と呼ばれる政治改革に着手した時期で、江戸時代の村々の記録の中でも特異なことです。それだけに、ヒメハルゼミは笠間藩でも注目されていたと考えられます。

 早速、『新訂原色昆虫大図鑑』(北隆館)を繙くと、太平洋沿岸の生息北限として茨城県片庭とあり、雄の体長は24~28ミリメートル前後、雌はやや小振りで産卵管が長く伸びるとあります。下の写真は雌で、産卵管が鮮明です。これは、笠間市文化財保護審議会委員の安見珠子(あみたまこ)先生が片庭で撮影された苦心の作です。シイ(椎)の大木の高い幹や枝で鳴くことが多いヒメハルゼミは、鳴き声が聞こえても姿を見ることが困難といわれる中で、貴重な作品です。今春刊行となった『笠間市の文化財』にも使用させて頂きました。

 次いで、私のスクラップから、昭和5年(1930)7月27日付け「いはらき」新聞の加藤正世(かとうまさよ)というセミの研究者の寄稿文を探りあてました。その文面で、当時、笠間周辺ではヒメハルゼミを「大蝉(おおぜみ)」と呼んでいたこと、地元の北山内小学校片庭分教場教員であった堀江廣(ほりえひろし)が、大正4年(1915)以降大蝉の調査と保護活動に従事し、その詳細な調査記録を贈られた加藤は感服し、共著の形で学界へ発表する予定と語っています。研究内容を横取りせず、地元研究者を尊重する加藤の姿勢に敬服します。 さらに、明治38年(1905)、谷貞子(たにさだこ)という研究者が「ヒメハルゼミ」と命名、発表したこと、この時期に新潟・福岡・千葉の三県に生息が確認されていたこと、セミの形は細長く、頭部と胸・背部は暗緑色、腹部は褐色で羽は透明であるとし、先の「昆虫図鑑」にまさる説明が加えられています。

 もう一点、地元笠間で注目する資料があります。昭和4年(1929)11月、昭和天皇を水戸市に迎え、茨城県下で実施された陸軍特別大演習の際、笠間稲荷神社社掌(しゃしょう)塙嘉一郎(はなわかいちろう)が作成・献納した『西茨城郡名所旧蹟写真絵巻(にしいばらきぐんめいしょきゅうせきしゃしんえまき)』に「片庭の大蝉」が収載されています。 「コノ蝉ハ椎ノ老樹ニ群棲、一・二ノモノ鳴キ始ムルト一斉ニ鳴キ、ソノ声大トナル。大蝉ノ名ノ起因」と述べています。

 国の天然記念物指定を受ける背景には秘められた物語があり、また多蝉・大蝉の呼び名の由来からは日本人の感性がしのばれます。

(市史研究員 矢口圭二)

 

ヒメハルゼミの生息地(片庭 楞厳寺)
ヒメハルゼミの生息地(片庭)

ヒメハルゼミ(雌)

ヒメハルゼミ(雌)

 

62. 香取小原神社の算額

 友部駅北口から北東へ、大原小学校を目指して、さらに北へ進むと右側に香取小原神社が祀られています。 社伝によりますと、久寿(きゅうじゅ)2年(1155) 、下総国(しもうさのくに)の香取神宮(千葉県香取市) の分霊を迎えて小原・上郷の香取神社と称しました。明治6年 (1873)の社寺改正によって、小原・上郷の鎮守(ちんじゅ)で「小原神社」 となりましたが、のちに 「香取小原神社」と改められました。

 香取小原神社の本殿は、流造銅葺き(ながれづくりどうぶき)の1.5坪の造りで、拝殿は間口3.5間(約6.4メートル)、奥行き2間(約3.6メートル)の入母屋破風(いりもやはふ)トタン葺きの建物です。

 江戸時代に発達した数学「和算」の問・答・術を額に記して神社仏閣に奉納した「絵馬」は「算額」と呼ばれています。

 香取小原神社の算額は、縦3尺 (約91センチメートル)、約5尺(約152センチメートル)の板額で、昭和2年(1927)に奉納されています。茨城県内には、18面の算額が現存しますが、うち13面が明治以降の奉納です。 同社の算額は、「昭和の算額」と呼ばれ、県内に残る算額の中で最も新しいものです。昭和の初め頃まで、和算を研究する人たちがいたことが分かる貴重なものです。

 願主は小原・原坪の光又柳見斎(みつまたりゅうけんさい)で、珠算講習会会員18名が考えた算問25題の円・三角・四角・ひし形など幾何学的(きかがくてき)図形が描かれ、計算問題と解答が漢文で書かれています。

 光又柳見斎の旧名は白澤寅之介で、慶応2年(1866)に生まれ、原坪の光又家の婿養子となりました。

 寅之介は幼い頃から算数や珠算に興味をもち、長じて明野町 (現筑西市) の廣瀬市右衛門國治に算法を、群馬県の萩原禎助信芳に和算を学びました。この算額には、萩原禎助信芳門人と記されています。なお、光又柳見斎は、のちに小原に珠算講習会を組織し和算の研究をしたといわれています。また、茨城県内の算額を記録した『算法廟堂掲示録(さんぽうびょうどうけいじろく)』を遺しています。

 この算額は、平成3年(1991)に友部町有形民俗文化財として指定され、現在は笠間市指定文化財となっています。

(市史研究員 福島和彦)

香取小原神社の算額
香取小原神社の算額(市指定文化財)
 

 

63.橋爪地内「花坂」のあゆみ

 笠間市の入浴施設のある花坂の地は、橋爪地内の南部に位置し、涸沼川左岸の舌状(ぜつじょう)台地上にあります。縄文時代より人々が生活するのに適した土地で、埋蔵文化財包蔵地(遺跡)になっています。橋爪は明治半ばまで橋爪村でしたが、同22年(1889)宍戸町の誕生により大字橋爪となり、花坂はその小字となりました。

 花坂には、かつて三乗院(さんじょういん)という寺院がありました。今は石仏の隣に、 「無刀齋先生之碑(むとうさいせんせいのひ)」が残っています。無刀齋は江戸後期、地域の人々の教育にあたりました。晩年は江戸に移り住んで、77歳で死去しました。門弟(教え子)たちがその徳行を称え、石碑の側面や裏面に漢文で師の業績を綴り建立しました。

 明治の中頃、花坂が学校敷地になりました。同27年(1894)に西茨城第二高等小学校の校舎が建設され、校舎前に運動場も造られました。のち宍戸高等小学校となり、同41年(1908)に宍戸尋常高等小学校の高等科の学校となりました。同校は大正9年(1920)、現在の宍戸小学校敷地に尋常科と高等科を合わせた校舎が落成し移転しました。花坂で高等科を過ごした卒業生は、 千人を超えました。学校移転後、校舎は取り払われて公園となり、花見の名所になりました。

 太平洋戦争後に作られた宍戸小学校の校歌には、花坂の地名が採り入れられました。同校は、詩人 ・ 児童文学者で、童謡 「ど こかで春が」 の作詞をした百田宗治(ももたそうじ)に校歌の作詞を依頼しました。来町した百田は学区内を巡った後、校歌の一番に 「春は花坂あげひばり」 と作詞しました。この校歌は、現在も声高らかに歌われています。

 昭和50年(1975)、福祉の町づくりを目指していた友部町は、花坂公園に保養施設を開設します。正式名称は建設地の地名をとり、 友部町老人憩(いこい)の家「はなさか」としました。 その後、 平成17(2005)に全面的に改築し、「いこいの家はなさか」としてオープン。人工温泉をはじめとした様々なタイプの風呂や、大広間・個室が設けられ、子どもから高齢者まで幅広い年代の人々が楽しめる施設になりました。今は「笠間市いこいの家はなさか」の名称で、健康増進のための入浴施設であるとともに、災害時の指定避難所になっています。

 このようにして、花坂の地は江戸後期から現在に至るまで、教育や福祉の拠点の一つとして歩んできました。今、この地へ足を運ぶと眺望が開け、仏頂山まで見渡すことができ、さらに愛宕山から難台山へ続く 山並みが遠望できます。

(市史研究員 幾浦忠男)

 

 

入浴施設のある花坂の台地

入浴施設のある花坂の台地

無刀齋先生之碑

無刀齋先生之碑

 

64.明治時代の岩間八景

 明治42年(1909)、岩間村は、自治・行政、産業、 景勝地などをまとめた『岩間便覧』を発行しました。この頃、近隣町村でも同様の刊行物が出版され、地域の歴史に目が向けられるようになりました。

 その中に 「岩間八景」 の記述がみられます。八景とは、その地方の景色の良い場所を8か所選定し作られたものです。愛宕山、難台山を軸に八か所の景勝地が定められ、それぞれの場所に俳句が添えられています。作者である後藤秦枝(ごとうしげえ)は、もともと笠間藩家老阿久刀川大江(あくとがわおおえ)氏の二男で、明治17年(1884)、愛宕神社支配の密蔵院後藤家の養子となり、先代後藤正名(まさな)氏の後を襲ぎ、愛宕神社、羽梨山(はなしやま)神社、六所神社、近郊6社の社掌を兼務した人物です。桃園(とうえん)の俳名を持つ俳句に長ずる人物で、愛宕神社にある奉納俳句の中に桃園の名がみられます。八景の選定とその場を詠んだ俳句は今もなお岩間地方に残る景勝地と言えるでしょう。

 岩間八景    桃園

 (1)平の落雁 落ち付きし 雁や平 夜の雨
 (旧笠間街道(355号線)市野谷・平の湿地帯に降り立つ雁の群れ、背には愛宕山が聳える。)

 (2)隠沢夜雨 遁れ住む 庵も静夜 春の雨
 (泉城の麓、安産祈願の女人信仰)

 (3)高寺晩鐘 鐘の音も 凪ぎし小春の 夕かな
 (東谷山龍泉院、暮れ六つの鐘)

 (4)遠望霞浦 帰り来る 白帆の上や 夕霞
 (愛宕山頂上より視界壮大、煙雨霞むもよし)

 (5)愛宕秋月 月影や 並びて高き 山の鼻
 (月明に仰ぐ愛宕のシルエットは詩情を誘う)

 (6)長峯晴嵐 晴れて行く 野分の後や 群鳥
 (静かなる山の佇まい、吹く風に長峯沼の小波の風情佳し)

 (7)横関夕照 夕立の 洗いて行し 入日かな
 (横関より難台、愛宕を望む夕焼け、五合田圃郷愁遥か)

 (8)難台暮雪 見る度に 心は寒し 雪の峰
 (南朝の哀史を秘め、 暮雪の難台想い深し)

 また、八景のモデルは、中国の 「瀟湘(しょうしょう)八景」といわれています。わが国では 「近江八景」 「金沢八景」 等が有名ですが、近隣の 「水戸八景」もその名を今に残しています。天保4年(1833)、徳川斉昭(なりあき)が水戸藩領内の景勝地八つを選んだといわれています。各景勝地には斉昭自筆の隷書銘(れいしょめい)を刻んだ碑が置かれています。景勝地を楽しむばかりではなく、藩子弟の心身鍛錬のため、各碑を巡らせるためともいわれています。「巡ると二十里に余れり」としていますので、約80キロメートルといったところでしょうか。

 岩間ライオンズクラブが、昭和60年代に創立15周年記念企画として 「岩間八景」 のパンフレットを作りました。それによるとJR岩間駅を出発して巡ると約20キロメートルの行程になっています。今もその景観は健在ですので巡ってみてはいかがでしょうか。しかし、水戸八景のように、 これといった目印がありません。自分なりの景勝地を選定してみるのも新たな発見になるかもしれません。

(市史研究員 川﨑史子)

岩間八景
岩間八景(岩間ライオンズクラブ発行「土浦藩岩間八景」より)
 

 

65.岩間の枕詞について

 下郷地内 (上町) に鎮座する六所神社境内に「狭隈井之碑(さくまいのひ)」」 があります。

 狭隈井之碑 (読下し)
 衣手の常陸國角障經(つのさはふ)岩間の里に鎮座(おわし)ます六所神社の御殿。一時甚く破荒いたりしかば、氏人等諸相畏みて語い謀り修め奉りしかども、飽かぬ事ともなほ多かり。然るに適々佐久間壽伯主大前仕奉る神官に任されたりしより、専ら己か費を奉出して、先ず朝御食(あさみけ)夕御食(ゆうみけ)に仕奉る。御水取るへき神御井(かみみい)を掘りて、大御饌(おおみけ)仕奉るに事足はし、廣庭に石甃敷列ねて、神幸の通路を安らかならしめ。傍近く宿直所(とのいしょ)を造りて守部を置き、常に其内外を衛らしめ、・(中略)・然れは其ノ事の蹟を後の世まて永く傳へ知らしむべく。 其ノ御井の名を狭隈井と負せて、其ノ縁由を斯は石文に掘り誌し侍るになん。
                                        東京 信田重並撰
                          明治四十五年七月 笠間 齋藤敬正書 氏子建之

とあります。内容は、次のようなものでしょうか。
「一時期荒れていた御殿を氏人らが謀り修めたが、佐久間壽伯が神官を任され、専ら自費で朝夕の御食事、御水を得る井戸を掘ったり、守部を置いて守らせたり、蚕の神を祀ったり、いろいろな事を自らの出費で行い、勤しみ功績を遺した。御井の名を 「狭隈 (佐久間) 井」 として碑を建てた。」

 ところで、碑文のなかに万葉集・風土記などに歌われている枕詞がでてきます。岩間地区では珍しいことなので、取りあげてみました。「衣手の常陸國」は、「常陸國風土記」では以下のように伝えます。「倭武が、東の夷(えびす)の國をご巡幸、新治の県(あがた)を通過した時、国造を遣わし、新たに井戸を掘らせたが、流れる泉が清らかに澄み、感動的な美しさであった。その時に、お乗物を止めて、すばらしい水だと誉めて手をお洗いになったところ、御衣の袖が泉に垂れて濡れた。そこで袖をひたすという言葉によって、この國の名とし、衣袖(ころもで)が枕詞となった。」

 また、土地の言いならわしに、 「筑波岳(つくばね)に黒雲かかり、衣袖漬(ひたち)の国」(筑波山に雲がかかると雨が降るので着物が濡れる。 ) というものもあります。

 「角障經(つのさはふ)」については、 万葉集巻二 ・ 一三五に、「角障經石見之海乃言佐幣久辛乃埼有伊久里尓會深海松生流荒磯尓會玉藻者生流 (以下略)」があり、その意は、「角障經石見(いわみ)の海の言さへく辛の埼なる海石(いくり)にぞ、深海松生ふる荒磯にぞ玉藻は生ふる。 」 辛の埼歌碑は、柿本人麻呂の歌碑で、島根県江津市・浜田市にあります。角の浦、高角山など江津が一望できるところだそうです。

 角障經、これを受ける人名・地名は「いは」を共有しているので、「岩」の意を介して続く万葉集中の五つの例がすべて「角障経」を「石」・「岩」の頭に使用していることから、「石」・「岩」につく枕詞で「角障經岩間の里」の角障經は岩間につく、「角障經石見」は、石見につく枕詞であることが分かります。

 身近にある碑など、 たまたまに覗いたところ、思わぬ発見がありました。

(市史研究員 松本兼房)

狭隈井之碑
狭隈井之碑
 

 

66.金剛寺の香時計

 国道50号の石井交差点から県道1号を宇都宮方面に2キロメートル程進むと、右側に「真言宗箱田山」「地蔵院金剛寺」と刻まれた門柱が見えてきます。石段を上り山門をくぐると、江戸時代、文化年間に建造された本堂が姿を現します。山号・院号は、箱田山地蔵院。創建は鎌倉時代初期、賀海和尚による開基とされ、地蔵菩薩を本尊としています。この金剛寺は、市指定文化財の香時計(こうどけい)を寺宝として所蔵しています。

 香時計とは、香が安定して燃え進む性質を利用した火時計の一種で、中国から日本に伝来したといわれています。古くから寺院の儀式、香や火を絶やさぬ仏具として用いられてきました。金剛寺の香時計は、江戸時代の作といわれていますが、作者は不明です。形は縦横各33.6センチメートル、高さ39.5センチメートルの箱火鉢で、ヒノキ材で作られています。香を焚く盤面には灰が入っています。この灰は木灰や藁(わら)灰で、数日前から水で灰のあく抜きをし、よく乾燥させ、ふるいにかけるなど準備が必要です。

 使い方は、まず灰ならしで均した灰の上に、溝をつける香型を置きます。香型で作った溝に沿って抹香を同じ厚さに埋め、香型を外すと、抹香の回路ができあがります。この回路の端に点火し、香の燃え進んだ長さによっ時間の経過を知るというものです。

 この香時計は盤面が四つに分かれており、1つの回路の燃焼に約6時間、4つすべての回路を使うと一昼夜燃え続けます。そのため常香盤・時香盤とも呼ばれます。

 香を焚いている間は、格子(こうし)状の蓋(ふた)を被せて使われていました。格子が時刻を知る目盛りになったと考えられます。また、箱火鉢の下部には、抽斗(ひきだし)が付いていて、香入れ、馬楝(ばれん)、灰ならし棒などの付属の道具一式を収納できるようになっていて実用的です。

 金剛寺の香時計は、時間に追われることの多い現代において、香の燃える芳しい匂いで時を計った先人たちの豊かな感性を垣間見ることのできる貴重な工芸品です。

(市史研究員 松山京子)

サンプル画像1

香時計

サンプル画像2

香時計の道具

 

67.笠間藩の参勤交代

 参勤交代とは、江戸幕府が武家諸法度に規定した制度です。藩主が江戸と領地を1年交代で行き来し、正室と嫡子は常に江戸住いというものでした。

 笠間藩の参勤交代は、通常6月に参府(江戸に行くこと)、翌年6月に暇(いとま)が出て笠間へ帰り、江戸と笠間を行き来しました。江戸に出る経路は府中・水戸街道経由の東道中と小山・日光街道経由の西道中がありました。両道中とも原則2泊3日でしたが、西道中の方が11キロメートル長いので、3泊の時もありました。西道中は笠間藩領の岩瀬・真壁を通り、結城と杉戸(埼玉県杉戸町)に宿泊しました。

 牧野氏笠間藩三代藩主貞喜(さだはる)は、 寛政9年(1797)5月28日早朝に笠間を出発、宍戸宿の大和田家で最初の休憩をとり、次いで岩間宿の本陣小沼家で休み、昼食は府中(石岡市)本陣の矢口家で、中村宿 (土浦市)の本陣川村家に宿泊しました。翌29日は小金に宿泊、6月朔日(ついたち)正午頃日比谷の上屋敷に到着しました。供侍(ともざむらい)106人、藩主以下130人の行列でした。前藩主貞長の時期は、250人を超えていましたが、財政難により100人ほど少なくしました。貞喜の時期、参府は丑卯巳未酉亥の年でした。

 笠間藩牧野家の上屋敷は日比谷御門内、中屋敷は浜町、下屋敷は小なぎ沢・深川大和(やまと)町にありました。

 寛政期以降は、東道中の使用が多くなりました。笠間城下を出て、大和田町・裸町(花香町)・下市毛村から手越村を通り、八反山を越えて宍戸に至る街道は、江戸時代の風情を残し、府中街道とか江戸道と呼ばれました。手越地区の街道筋には馬頭尊・如意輪観音像・十九夜供養塔・鬼子母神像などの石仏・石塔が多く見られます。

 手越では嘉永元年(1848)に宇津惣右衛門が陶器製造を始め、現在の三宅陶園・大津晃窯・三禄陶園がその伝統を受け継いでいます。また、陶の里では、8・9人の陶芸家が作陶に励んでいます。ガラス工房などもあり、芸術村の趣があります。

 くねくねした手越街道を進むと、東性寺(真言宗豊山派)や鬼渡(きど)神社を左右に見ながら八反山の山道に差し掛かります。その入口に双体道祖神が立っています。駒形の石に女神が銚子を手に、男神が杯を持って2人寄り添った微笑ましい像です。道祖神は、村や家に疫病や悪霊が入ってくるのを封じる神で、サエノ神とかドウロク神とも呼ばれて信仰されてきました。旅の安全無事も祈願しました。

 昨秋、この街道の近くに「道の駅かさま」が開業し、大変な賑わいを見せています。静かな手越・八反山道とは対照的です。八反山の山路は薬研状(やげんじょう)で江戸時代のままです。コロナ退散を道祖神に祈り、小鳥のさえずりを聴きながら山林浴をしてみましょう。

(市史研究員 南秀利)

双体道祖神双体道祖神  

 

68.笠間藩の名君 牧野貞喜  ~没後200年に寄せて~

 牧野貞喜(まきのさだはる)の名を問われ、江戸時代笠間の名君を思い浮かべる方は少ないかと思います。友部・岩間両地区にお住まいの方は初めて聞く方が大半かも知れません。江戸時代の後半、貞喜は窮迫する笠間藩の財政再建などの藩政改革に挑んだ名君と称される藩主です。

 延享(えんきょう)4年(1747)、京都所司代(しょしだい)であった牧野貞通(さだみち)が日向国延岡(ひゅうがのくにのべおか)(宮崎県)より八万石で笠間藩主に着任、牧野氏笠間藩が成立しました。寛延(かんえん)2年(1749)、嫡男(ちゃくなん)貞長(さだなが)が藩主を継承し、やがて大阪城代・京都所司代を経て天明4年(1784)に老中となり出世階段を上りつめ、やがて同職を辞任。寛政4年(1792)、貞喜に藩主の地位を譲り隠居します。

 幕府の要職に就いたものの、貞長治世(ちせい)の笠間藩は財政の破綻という苦境に立たされました。後継者である貞喜はその克服に苦しみます。破綻の主な要因は年貢などの重い種々の負担や飢饉(ききん)、そして貨幣経済が徐々に農村へ浸透してきたことで村での生活ができず、耕作を放棄して領外へ逃れる農民が続出したためです。貞長の藩主就任から文化7年(1810)に貞喜が後半の改革に着手するまでの約60年間に、領内人口が1万人余減少しています。年貢の収納は、天明の大飢饉の最中であった天明6年の4万石を最高に、天明3年(1783)から享和元年(1801)に至る18年間、年平均1万9千石余の減収です。牧野家の家高が8万石、藩財政収入の大半を年貢収入に依存する同藩にとり致命傷でした。不足する藩の運営費は三井(みつい)家・鴻池(こうのいけ)家など大商人からの借入が主でした。借入額(借財)は貞喜の藩主就任時に金30万両余、後半の改革着手時に金27万両余です。

 苦境に直面した貞喜が、この難局にどう対処したのか。これが貞喜の藩政改革です。藩財政再建のためには領内農村の復興が大きな課題でした。改革は、前半が稲田・西念寺(さいねんじ)の良水(りょうすい)と提携した入百姓(いりびゃくしょう)導入策(北陸地方の農民を招き入れて荒廃した領内農村を復興させる)を柱とし、後半は同藩の改革担当者を刷新して新たな改革に取り組む二段階に分けられます。従来の貞喜研究は、「名君」の名に押されて貞喜の人間像が美辞麗句で飾られた感があります。本年11月から開催予定の特別展「没後200年  牧野貞喜展  ー苦悩する名君  そして改革の軌跡ー」では、市史研究員が牧野家文書および稲田・西念寺所蔵の史料等を読み込み、市内外の調査を交え、従来の研究を補って新たな貞喜像を打ち出そうと準備を進めています。「新型コロナウイルス感染症」に苦しむ現在の日本ですが、貞喜を取り巻く状況も現在の日本に劣らぬ逼迫した状態でした。漢学や日本の古典に精通した教養人貞喜の、 家臣や領民を思いやる政(まつりごと)(政治)とは何なのか、苦悩する貞喜の生きざまを笠間公民館の会場で確認してみてください。

(市史研究員 矢口圭二)

    伝牧野貞喜の頭部像            絵画「貞喜公憐民の句」
  伝牧野貞喜公の頭部像(西念寺蔵)    牧野貞喜の発句「ふりむくは 啼く子の親か 田植え笠」を描いた
                      日本画家 高崎興(たかさき こう)の作品(笠間市教育委員会蔵)     

 

 

69.天狗騒動 土師村明神山の戦い

 元治元年(1864)3月、藤田小四郎等水戸藩脱藩浪士は、尊王攘夷(そんのうじょうい)を唱えて筑波山に結集して天狗党と称しました。周辺の士民に広く参加を呼びかけ、それに対して農民・神官・浪人など攘夷思想を抱く人々が参加しました。一行は日光東照宮で攘夷の実現を祈願しましたが集団での参拝を禁じられ、栃木大平山へ移動、5月末には筑波山へ戻りました。その時には水戸領以外からも同志が集まり、600人を超える勢力となりました。

 幕府は開国策をとっていたので、水戸藩および周辺の諸藩に天狗党の取り締まりを命じ、水戸藩では市川三左衛門・朝比奈弥太郎ら諸生派(しょせいは)が天狗党と対立しました。

 天狗党の名の由来は、水戸藩九代藩主徳川斉昭の改革に反対する人々が藤田東湖・会沢正志齋らの改革派を、学問を鼻にかける成り上がり者で天狗になっていると称したことによるといわれます。一方、藩校弘道館で学ぶ若者を諸生と呼び、改革に反対する保守門閥派の人々を諸生派といいます。天狗党の献金強要などを阻止するために村々で結成された自衛組織が、武装して諸生派へ加わることもありました。鯉渕(こいぶち)勢・河和田勢・薄井勢・寺門勢などのの農兵隊がその例です。鯉渕勢には笠間市域の村々からの参加者もいました。

 同年7月末、鯉渕勢が宍戸方面から天狗党分派の田中愿蔵(げんぞう)隊を追って、土師村の明神山を戦場に激しい戦闘を繰り広げました。女人信仰の淡島明神(あわしまみょうじん)側に鯉渕勢が陣を敷き、同村の鎮守八龍明神(はちりゅうみょうじん)(明治初年高龗(たかおかみ)神社と改称)境内に田中隊が陣を構え、両軍鉄砲の撃ち合いとなり、流血の修羅場となりました。

 劣勢の田中隊は、土師村の水戸街道沿いにある集落に火を放って退却しました。この戦乱の中で、土師村庄屋塩畑藤次郎は母屋から村の重要書類を抱え、土蔵に収めている間に田中隊に切り殺されました。藤次郎は自らの生命と引き換えに、村の貴重な文書を守りました。

 この戦乱で、土師村52軒のうち26軒が焼かれ、淡島神社に隣接した真言宗善巧院(ぜんこういん)も焼失。即死6人・怪我人5人・馬2頭焼死・1頭逃亡という甚大な損害を被りました。

 田中隊の隊長田中愿蔵は弱冠20歳。江戸昌平黌(しょうへいこう)教授安井息軒に学び、御前山の野口に創設された水戸藩郷校(ごうこう)の一つ時雍館(じようかん)の館長を務めました。愿蔵は各地で軍資金を強要し、断るとその地を焼き討ちし、栃木町・土浦真鍋宿(まなべしゅく)などが焼き尽くされました。このような放火・略奪を行ったために悪名を広め、民衆の反感を買い、後に捕らわれ刑死しました。

 その後、土師村は藩と幕府に何度も復興の援助と年貢の減免を願い出て、米47俵と金5両が支給されましたが、御林での建築資材の伐採も許されず、平年並みの年貢を徴収され、自力で復興しなければならなかったのです。

(市史研究員 萩野谷洋子)

    天狗党による土師村焼討        淡島神社(土師)
       天狗党による土師村焼討                    淡島神社(土師)

 

 

70.親鸞ゆかりの地 加志能為神社

 県道石岡・城里線を岩間方面から鯉淵(旧内原町)に向かう途中、枝折川(しおりがわ)に架かる柏井橋を過ぎ信号を右折し、200メートルほど行くと、みの観音に出ます。そこを右に曲がり100メートルほど行くと加志能為神社の前に出ます。

 神明(しんめい)神社は明治42年(1909)に、幟立石(はたたていし)は大正2年(1913)に建立されました。鳥居をくぐって進むと、平成4年(1992)に奉納された石造の狛犬があります。また、境内に、昭和46年(1971)に建てられた神社の由緒碑があります。

 加志能為神社の祭神は、 弥都波能売命(みつはのめのみこと)・鳴雷神(なるいかづちのかみ)で、例祭は11月22日です。

 境内神社は、瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)を祀る清滝神社、大山咋命(おおやまくいのみこと)の日枝神社、奥津比古命(おきつひこのみこと)・奥津姫命(おきつひめのみこと)の三柱神社、高於加美命(たかおかみのみこと)を祀る大山神社、須佐之男命(すさのおのみこと)を祀る八坂神社です。奥津比古命・奥津姫命は、ともに竈(かまど)の神(荒神様(こうじんさま) )です。

 神社の創立は、承久3年(1221)3月とされています。親鸞が常陸国に来て7年目にあたります。

 親鸞は稲田に住んで各地を布教して歩き、ときどきこの辺りにも来ていたといわれています。近くの枝折川は、加志能為神社付近から1キロほど南下して涸沼川に合流します。当時、 幅が1間 (約1.8メートル)もあれば舟が往復できました。涸沼川は交通路であり、親鸞は、笠間から舟で下ってくることもあったことでしょう。言い伝えでは、大昔に鹿島大神が当地方を平定した時のゆかりの地で、布教の折、親鸞がこの地に来られたとき、白髪の老翁があらわれ、 「われは鹿島大神なり」 といわれました。親鸞は驚いて、すぐに村人に伝え、村人に勧めて鹿島明神の分霊を迎え、当所の鎮守としました。社名の由来は神水 「鹿(か)の井」によるとされています。この井については、親鸞もたびたび汲んだ井戸と伝えられています。

 当社のすぐ前に、親鸞ゆかりの松があります。この松に親鸞が袈裟(けさ)(蓑懸けともいいます)を掛けて休憩したといわれています。 袈裟掛けの松には、 親鸞が、 「松の志(し)ん幾千代(いくちよ)経ぬれ柏井の里」 と詠んだとされる歌が伝えられています。松は昭和40年代に枯れ、その跡に、平成16年(2004)に加志能為神社氏子一同が記念碑を建立しました。

 なお、神社前の畑一帯は縄文時代の柏井遺跡で、土器・石器等が多数出土しています。なかでも土偶はこの地方では珍しく、貴重なものです。

(市史研究員 福島和彦)

    加志能為神社        親鸞聖人袈裟掛けの松
           加志能為神社                     親鸞聖人袈裟掛けの松
                                       (昭和17年撮影)

 

 

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