かさまのれきし

かさまのなりたち

 

地名の起こり

【笠間】

まわりを山で囲(かこ)まれた笠間(かさま)は、むかしから人々がたくさん住(す)んでいました。
奈良時代(ならじだい)にかかれた、古い書物(しょもつ)として知られる「常陸国風土記(ひたちのくにふどき)」の中にも「笠間村(かさまむら)」というなまえが出てきます。
この笠間盆地(ぼんち)の中で古くから人々が住んでいた所(ところ)は、石井(いしい)、市毛(いちげ)、大渕(おおぶち)、福田(ふくだ)、飯田(いいだ)、徳蔵(とくら)、箱田(はこだ)、来栖(くるす)、本戸(もとど)、吉原(よしわら)、稲田(いなだ)、福原(ふくはら)の12の里(さと)です。
笠間の土地全体の形とこの12の里は、ちょうどむかしの人が雨のときに頭(あたま)にかぶった「すげ笠(かさ)」ににています。すげ笠は、6本の竹の骨をつかって中心を組み合わせ、すげの葉であんで作ります。すげ笠の中心は12の骨にしきられて、たいらな所も12できますので、12のほねを山すじと見て、その間に12の里があるように見ることができます。このように笠間は、ちょうどすげ笠をうらがえしにしたような土地の間に里があることから、ここを「笠間」と名づけられたと笠間に古くから伝わる「笠間城記(かさまじょうき)」という本にかかれています。



【佐白山(さしろさん)】

むかしむかし、笠間盆地(ぼんち)の東の方に大きな木立(こだち)がうっそうとしげった山がありました。この山には、「白いきじ」と「白いきつね」と「白いしか」がなかよく住(す)んでいました。
この白い3びきは神様(かみさま)のおつかいで、この山を守っているたいへんめでたい動物(どうぶつ)です。そこで、この山をだれ言うとなく、3びきの白い動物が住んでいることから「三白山(さしろさん)」とよぶようになりました。
また、その後この山に大きなお寺が建(た)てられ、「三白山正福寺(さしろさんしょうふくじ)」と名づけられました。それから後(のち)、いつのまにか「三白山」を「佐白山」とあらわすようになりました。



【石井(いしい)】

むかしむかし、神代(しんだい)のころタケミカヅチノ神とフツヌシノ神は、高天原朝廷(たかまがはらちょうてい)から全国(ぜんこく)を平定(へいてい)するように命令(めいれい)をうけました。この2神は、たくさんの神々をひきつれて国々をめぐってたたかいをしてきました。
どのたたかいも高天原軍(たかまがはらぐん)の勢(いきお)いがつよく、たたかうごとに朝廷(ちょうてい)のおさめる国が広がっていきました。そして、東へ東へと進み、とうとう常陸国(ひたちのくに)に入りました。
ある日、那珂川(なかがわ)と久慈川(くじがわ)あたりまで来ると、そこはカガセオという一族(いちぞく)の頭(かしら)がつよい力をもっていました。カガセオは、大甕(おおみか)の里の石名坂(いしなざか)という所に大きなとりでをきずいてたてこもり、一歩もゆずろうとはしませんでした。高天原軍は、おせどもおせどもなかなか先へ進めません。高天原軍は、カガセオ軍のちからにたじたじでした。
カガセオは、勢いにのって、「今だ、高天原軍をおいかえしてやれ!」と、すがたを石に変(か)えました。石は、昼に夜にぐんぐん大きくなってとうとう天(てん)をつきやぶるばかりの大岩になりました。高天原軍は、ただおどろくばかりで手の出しようがありませんでした。
そのころ、大甕の近くの倭文(しず)の里に、タケハツチノミコトがいました。ミコ卜は大変(たいへん)ちからもちではありましたが、里の女たちに「倭文織(しずお)り」というはたおりを教(おし)えていました。
ミコトは、2神から石名坂のたたかいの様子(ようす)をつたえ聞(き)いて、高天原軍にみかたしようと、よろいかぶとに身(み)をかためて戦場(せんじょう)にむかいました。
今まさにカガセオの大岩が、高天原軍をつきやぶろうとした時かけつけてきたミコトは、
「カガセオ思いしれ!」とばかり全身(ぜんしん)に力をこめて大岩めがけてつき進みました。そして力いっぱい大岩をけとばしました。
するとどうでしょう。大岩はみるみる3つにわれて、今の城里町(しろさとまち)の石塚(いしつか)、東海村(とうかいむら)の石神(いしがみ)、そして笠間市の地にとびちりました。術(じゅつ)をやぶられたカガセオは、血をはいてその場で命を落(お)としました。
笠間に飛んだ石は、ひろびろとした小高(こだか)い台地(だいち)の中ほどに落ちました。ところが不思議(ふしぎ)なことに、落ちた石の所からこんこんときれいな水が出てやがて泉(いずみ)となったのです。
この地に住んでいた村人(むらびと)は、
「きれいな水がわき出て、とってもおいしい。」
「この泉からは、水がたくさんわき出るのでいつでも使(つか)えてうれしい。」
「この泉は、神様(かみさま)があたえてくれたものにちがいない。ありがたや、ありがたや。」
とよろこびました。
そこで村人たちは、この泉を村の井戸(いど)として使うようになり、のみ水やあらいものなどくらしにたいそう役立(やくだ)てました。
このようにいつのころからか、この石の落ちたところに井戸ができたので、このあたりを「石井」という地名(ちめい)でよぶようになりました。また、村人はカガセオのたたりをしずめるために社(やしろ)を建(た)て、タケハツチノミコトをまつりました。その社を「石井神社(いしいじんじゃ)」と言います。



【来栖(くるす)】

むかしむかし、日本の国がまだ一つにまとまっていなかったころのことです。
景行天皇(けいこうてんのう)の皇子(おうじ)で、男気(おとこぎ)とすぐれたちえがある日本武尊(やまとたけるのみこと)がいました。尊(みこと)は、天皇の命令で国をまとめるために、たくさんの兵士をつれて東国にむかいました。
山をこえ、川をわたり、ある時はたたかったり、ある時はゆずりあったりして、日本の国としてまとまるように力をつくしていました。
尊はやがて、常陸国(ひたちのくに)へ入りました。笠間を通(とお)るころには、兵士たちは長い行軍(こうぐん)でたいそうつかれたので、ここでひと休みすることなりました。 村人たちは、尊をむかえ、休める所を急(いそ)いで作りました。この村に彦一(ひこいち)という若者(わかもの)がいました。彦一は、尊のためにうら山に出かけて行って、栗(くり)の実(み)をかごいっぱいひろいました。そして、おそるおそる尊のまえに出て「どうぞみなさんで食べてくんろ。」とさし出しました。
尊は、「おお、これはありがたい。ここの栗の実か。」と、たいそうおよろこびになりました。
栗の実をおいしく食べた尊は、「ここは、おいしい栗がたくさん実(みの)るよい所だ。」と思い、この地を「くりのす」と名づけ、いつまでもお忘(わす)れにならなかったということです。
また、村人の一人はそれはそれは大事(だいじ)にしていた剣(けん)の形をした青い石を尊にささげました。尊は、「ありがたいことだ。この石をわが身(み)と思え。」
と言われ、村人に返(かえ)しました。村人たちは、社(やしろ)をたててこの石をご神体(しんたい)としてまつりました。後(のち)に、「くりのす」を「栗栖」と書き、さらに「来栖(くるす)」とかわったとのことです。そして村の社を「来栖神社(じんじゃ)」と名付けました。



出典:笠間の民話(上)

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