文化・歴史

笠間城の歴史

いにしえの佐白山

『1.三白の由来』の画像
佐白山(三白山)の由来の白い狐・鹿・雉

笠間城が築かれる前、佐白山の頂上には「佐志能神社」という神社がありました。
また、白雉2年(651)、佐白山頂に、真言寺院の「三白山三白寺(さしろさんさしろじ)」の伽藍(※)が作られたという伝承が伝わっています。平安時代末から鎌倉時代には僧坊百余を数えるほど栄えたそうです。

ちなみに、佐白山はかつて“三白山”と呼ばれていました。その由来は、この山に神様のお使いの白い雉、白い鹿、白い狐の、三匹の白い動物がいたからだといわれています。山を守る白い動物が三匹すんでいる山、というところから、“三白山”と呼ぶようになったそうです。

※(門、本堂、鐘楼など、お寺の主要な建物の集まり)



笠間城の築城

『2.僧兵の争い』の画像僧兵の争い

笠間城の築城が開始されたのは、承久元年(1219)と伝えられています。この頃、佐白山の三白山三白寺は同じ真言宗の寺院である徳蔵引布山徳蔵寺(東茨城郡城里町)と抗争を繰り返していました。

戦いで劣勢になった三白山の座主(寺院の長)生田坊は、当時、下野と常陸で大きな勢力をもっていた宇都宮頼綱に助けを求めました。頼綱は、甥の時朝を大将とした軍勢を送り、徳蔵寺を制圧しました。時朝の軍はさらに、助けを求めてきた三白山三白寺までをも制圧し、笠間への侵略を果たしました。

江戸時代に編纂された『笠間城記』によると、時朝は笠間に侵攻したあと、しばらくは石井邑に軍営を置き、のちに佐白山の西麓(にしふもと)に館を構えたそうです。この館は麓城と呼ばれました。現在の笠間稲荷神社の北の竹やぶには、麓城(ふもとじろ)の遺構といわれる土塁が残っています。

その後、山頂の寺院を取り壊わし、その場所に笠間城が築かれました。1219年から始まり、完成したのは1235年のことと伝えられています。こうして笠間の地を支配下においた時朝一族は、以後「笠間氏」を名乗るようになりました。



笠間氏の滅亡

天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際、笠間家当主綱家は宗家宇都宮氏の命に逆らい小田原方(北条氏)の味方に付きます。これが原因で、小田原攻めの後に宇都宮氏勢に攻め込まれて笠間城は落城し、笠間氏に代わって宇都宮家家臣の玉生高宗が城主となりました。

その後、慶長3年(1598)に宇都宮城主蒲生秀行の重臣蒲生郷成が3万石で封じられ笠間城に入りました。郷成は阿武山(佐白山の山頂の別称)に重楼(じゅうろう)を建てたと『笠間城記』に記されており、石垣を含む天守曲輪の造営を行ったと考えられます。登城路の整備も玉生・蒲生時代に行われ、城下町の建設も玉生時代に開始されました。こうして、笠間城は近世城郭として生まれ変わりました。



下屋敷の建設

『下屋敷の建造』の画像
笠間城下屋敷

関ヶ原合戦の一年後、慶長6年(1601)、徳川家譜代の家臣松平康重が蒲生郷成に替わって入城しました。その後藩主は、延享4年(1747)に牧野貞通が8万石で封じられるまでは、めまぐるしく入れ替わりました。

この間、正保2年に作成され、幕府に提出された正保絵図には、現在残されている曲輪の縄張りと同様の姿が描かれているため、近世城郭としての笠間城は、慶長から正保までの間にほぼ完成されていたことがうかがえます。笠間藩の政務は、山上の笠間城で行われていました。しかし、次第に日常の政務をおこなうために山を登るのは、不便だと考えられるようになります。そこで浅野家が藩主だった寛永20年(1643)に、笠間城が立地する佐白山の下の台地に藩の庁舎となる“下屋敷”が建設されました。以後、下屋敷が藩行政と藩主の生活の中心となり、山上の城は次第に象徴的な存在となっていきます。

 
つづく・・・

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