民話(みんわ)
- 大黒岩のいわれ
- 大日山(おおひやま)の天狗(てんぐ)の話
- 歌(うた)うたい石
- アクタイ祭り
- カッパのはなし
- 大蛇(だいじゃ)のはなし
- 豆煎(まめい)り観音(かんのん)
- たぬきのお月さん
- きつねの嫁入(よめい)り
- 一本桜(いっぽんざくら)・天狗党(てんぐとう)の塚(つか)
大黒岩のいわれ
むかしむかし、佐白山(さしろさん)に大きなお寺がありました。
名を「三白山正福寺(さしろさんしょうふくじ)」といい、お堂(どう)や三重(さんじゅう)の塔(とう)などの建物(たてもの)がたくさん山の中に建(た)てられていました。ここには、100人のお坊(ぼう)さんたちが熱心(ねっしん)に修行(しゅぎょう)をしていました。
同じころ北の山には、300人のお坊さんがいた徳蔵寺(とくぞうじ)があって大きな力を持(も)っていました。この二つのお寺は真言宗(しんごんしゅう)のお寺でしたが、おたがいに勢力(せいりょく)をのばすために何回かあらそいを起こしていました。そしてついに、僧兵(そうへい)というお坊さん達が武器(ぶき)を持って戦いとなってしまったのです。
ある日、徳蔵寺の僧兵が大勢(おおぜい)笠間へせめこんできました。不意(ふい)をつかれた正福寺の僧兵たちは、むかえうちましたが力およばず、しだいに佐白山のいただき近くまで追いこまれてしまいました。
「笠間勢(かさまぜい)はもうすぐ終わりだぞ!それあとひとおしだ!」
「それ、者どもいっきにせめこめー」
勢(いきお)いにのった徳蔵寺勢(とくぞうじぜい)は、細い山道いっぱいにせめこんでいきました。その時、いただき近くにあった小山ほどの大きな石が、とつぜんゆっさゆっさとゆれ動(うご)き出し、みるみるはげしくなって、ついにゴロンゴロンと大きな音を立てながらころがり出したのです。
せめ登(のぼ)っていった徳蔵寺勢は、この石の下じきになったり、つぶされそうになったりしたので、ちりぢりになってにげ出しました。僧兵たらは、この石のために戦いの気力(きりょく)をなくして北の山に引き上げてしまいました。負けてしまったかと思った正福寺勢は、あやういところでこの石のおかげで徳蔵寺勢をしりぞけることができました。大きな石は、佐白山の途中(とちゅう)まで転がり、ぴたりと止(とま)りました。
実は、佐白山には、この戦いの前に山のいただき近くには2つの石があったのです。大黒様(だいこくさま)の形の石ときんちゃくぶくろの形をした石でしたが、転がった石はふくろの形をした石でした。そして不思議(ふしぎ)なことにいつのまにか大黒様の形の石は消(き)えていたのです。
その後、福(ふく)をもたらしたふくろの形をしたこの石を、「大黒石(だいこくいし)」とよぶようになりました。そして、お坊さんたちはこの石が笠間にしあわせをもたらし、消えた大石もふたたび元(もと)にもどって来るようにと願(ねが)いをこめて、次のような歌(うた)を作りました。
「大黒(だいこく)の ふくろを残(のこ)す 笠間山(かさまやま) なおいく末(すえ)は 福貴(ふくき)なるらん」
今、大黒石は佐白山へ登る山道の中ほどにどっしりすわっていて、行き通(か)う人々に笠間のむかしを語りかけているようです。
ところで、大黒石の中ほどに小さなくぼみがあります。「大黒石のおへそ」と言います。後の世になって、福をもたらす大黒石にちなんで、へそあなに小石を3度つづけて入れるとしあわせになるという話が伝えられました。 「どうか、いいおよめさんが見つかりますように。」
「商売(しょうばい)がはんじょうしますように。」
ここをおとずれる人々は、自分の願いをこめて何回も石を投(な)げ入れました。
ただ、入っていた石を落としてはねがいごとはかなえられないそうです。
出典:笠間の民話(上)
大日山(おおひやま)の天狗(てんぐ)の話
むかし、むかし、上加賀田(かみかがた)の仲谷津(なかやず)あたりに、こしん坊(ぼう)という息子(むすこ)と年寄(としよ)りの母親(ははおや)が住(す)んでいました。貧(まず)しいくらしでしたが、こしん坊は親孝行(おやこうこう)で、親子むつまじくくらしていました。
母親は、
「生きてるうちに、いろいろの所を見てえもんだ。中でも尾張国津島(おわりのくにつしま)の祇園祭(ぎおんまつり)は日本一のまつりだそうだ。それを見ればこの世になんの望(のぞ)みもねえ。しかし津島は遠くていけねえし…。」 と口ぐせのように言っていました。
ある時、突然(とつぜん)息子のこしん坊が、
「おっかあ、おらが津島につれて行ってやっペ。」
と言いだしました。母親は、びっくりして、
「つれて行くって、2里(り)や3里の所でねえぞ。行けるわけがねえべ。」
と、あきれ顔で言うと、
「いや、おらのいうことをよく聞(き)けば行ける。人には言わねえでこっそり行くべ。」
と息子はこたえました。
そして、祇園祭の前の日の事です。突然、こしん坊は、
「おっかあ、目かくしをして、おらにおんぶされや。だとも、途中(とちゅう)で目かくしをとってはなんねえど。」
と、母親をうながしました。母親は、息子のいうとおりに、目かくしをして、こしん坊の背(せ)におぶさりました。そして、何時(なんどき)かすぎました。
「おっかあ、津島についたから、目かくしをとってもいいぞ。」
と、こしん坊が言いました。
母親は、そっと目かくしをとって見ると、そこは、祇園祭りのお飾(かざ)りが町中に飾ってある津島でした。にぎやかな津島のまつりを、あっちこっちみて、楽しいひとときがすぎました。そして、祭りが終わった夜、来たときと同じように、こしん坊におんぶされて家に帰りました。
「おっかさん、よかったっペ。」
「おら、この上もねえ所を見せてもらって、心残(こころのこ)りがねえだよ。」
「そうか、よかったなあ。だが、おっかさん、おら、よくよくつかれたから、あしたは一日中(いちにちじゅう)休ませてもらうぞ。おらの部屋(へや)はあけねえでもらいてえ。」
といって、自分(じぶん)の部屋に入ってしまいました。
ところが、夕方になっても起きてこないので、心配になった母親は、ふすまを音のしないように開(あ)けてみました。すると、部屋には息子のすがたはなくて、天狗が、八畳間(はちじょうま)いっばいに羽根(はね)を広げて寝(ね)ていました。母親は、びっくりしたが、そっとふすまをしめ、知らんふりをしていました。
2、3日して、こしん坊が、
「おっかさん、おらごと見たっペ。おらの正体(しょうたい)を見たにちがいねえ。親子でくらしてぇのはやまやまだが、おらも旅(たび)に出るほかねえだ。体に気をつけて、元気にくらしてもらいてえ。」
と、家を出て行ってしまいました。母親は、息子の正体を知ってしまったから、ひきとめることもできません。こしん坊は、大日山にこもりました。
しかし、昼間になると、時々帰ってくることもありました。ある冬の日に、
「おっかさん、何か食いてえものがあっか。」
と、こしん坊が言いました。母親は、
「おらは、竹の子が食いてえ。しかし、この寒中(かんちゅう)に、あるはずもねえべな。」
と、つぶやきました。こしん坊は、
「大日山に来たらいがっペ。」
と言ったので、行ってみると、小さな竹の子が出ていたのです。
何日かすぎて、こしん坊がやってきて、さびしそうに言いました。
「おっかさん、おらは、いよいよ長い旅に出かけることになっただ。おっかさんの生きているうちは、食べものは心配すんなよ。大日山には、寒中になっても竹の子が出っからな。」
と、言い残して、こしん坊は、ふたたびすがたをあらわすことはありませんでした。
親孝行のこしん坊は、実は、大日山の天狗さまだったということです。
出典:笠間の民話(上)
歌(うた)うたい石
むかしむかし、佐白山(さしろさん)の南側(みなみがわ)の谷に大きなかしの木がありました。人々はこのあたりの谷を「かし沢(さわ)」とよんでいました。
このかし沢に高柳大納言(たかやなぎだいなごん)というたいそう位(くらい)の高いおくげさまがすんでいました。このおくげさまは、わかいときに都(みやこ)にすんでいて、国のまつりごとのしごとを熱心(ねっしん)につとめていました。
あるとき、思わぬことから自分(じぶん)のしごとをしくじってしまい、多(おお)くの人々に迷惑(めいわく)をかけてしまいました。そのために、天皇(てんのう)のおいかりにふれて、笠間に島流(しまなが)しにあい、このかし沢にすまいを建(た)ててくらすようになりました。
笠間の人々はこのすまいを「高柳館(たかやなぎやかた)」とよびました。
おくげさまは、たいへん和歌(わか)を作るのが上手(じょうず)でした。都にいたころは和歌のあつまりで、名のある歌人(かじん)といっしょに和歌をよみ、すぐれた歌をたくさんつくったということです。
高柳館のまわりは、山にかこまれ四季(しき)おりおりの花がさきます。その様子(ようす)をながめていると、いつのまにか都を思い出しました。梅(うめ)の花をみては、
「都の天神様(てんじんさま)の梅はもうおわりであろうか。」
お盆(ぼん)になると、
「大文字山(だいもんじやま)のおくり火はさぞかしみごとであったろうのう。」
「嵐山(あらしやま)のまんどう流しは今年(ことし)はどうであったろう。」などひとりごとをいう毎日(まいにち)でした。
月日がたつうちに、笠間のくらしにもなれてきました。館(やかた)のまわりをあるいたり、山にのぼったりしているうちに、都の自分のやしきのうら山にたいそうにているところをみつけました。
ここは、佐白山の東にある小さい山です。この山の中腹(ちゅうふく)に高さ3メートルほどの大きな石があります。石の上はたいらで座敷(ざしき)のようになっています。ここにすわると四方(しほう)がよくみわたせて、都の様子を思い出させました。
思わずむかしよんだ和歌を口ずさんでいると、いつのまにかはればれとした気持(きも)ちになりました。
それからは、たびたびこの石に上がり、和歌をよむようになったのです。この様子をみていた笠間の人々は、この石を「歌読石(うたよみいし)」と名づけました。そして、いつのころからか「歌読石」を「歌うたい石」とよぶようになったということです。
出典:笠間の民話(下)
アクタイ祭り
愛宕山(あたごさん)には、アクタイ祭りというおまつりがあります。旧暦(きゅうれき)の霜月(しもつき)※14日がおまつりの日です。その7日前(なのかまえ)に13人の天狗(てんぐ)さま役(やく)のひとが五霊集落(ごりょうしゅうらく)からえらばれて、集落内(しゅうらくない)の行屋(ぎょうや)というところにこもって、寒(さむ)い中、水を頭(あたま)からかぶって精進潔斎(しょうじんけっさい)※をしました。
行(ぎょう)※をするにはむかしから決まりがあって、それをやぶると不思議(ふしぎ)なことがおこりました。
たとえば、水ごりの行※に入るときは女のひとは近(ちか)づけません。炊事(すいじ)※も男のひとのしごとで、女の人が作ったものを食べてはいけませんでした。また、魚は食べてもいいのですが、お肉は食べられません。 あるとき、こんなことがありました。水をくみ上げようとしたのに井戸(いど)からつるべがあがってきません。先輩格(せんぱいかく)の天狗になったひとが、「それ、おめえらたいへんだぞ。」といってくんでみると、そのひとにはちゃんとくめました。このひとはお肉を食べなかったからです。
行の最中(さいちゅう)、天狗たちはお供(そな)えのおもちをつくります。もち米(ごめ)をふかすために火をつけるのは当番(とうばん)のひとの役目(やくめ)ですが、ある日、若(わか)いひとが「なあに、おれがふったけ(つけ)ちゃあべ。」といって火をつけました。ところがいつまでたってももち米がたけません。「なんしたことやったんだ。」みかねた当番のひとが火をつけると、たちまちもち米がたけたそうです。
このように愛宕山は不思議なことたくさんおこる、あらたかな(神様の力がつよい)場所(ばしょ)でした。
14日のまつりの晩(ばん)は、おまつりがはじまるとみんな火を消して、絶対(ぜったい)につけません。おまつりでは、まつりの名のとおり天狗たちにむかって悪口(わるぐち)をいいます。天狗たちは悪口をいわれても決(けっ)して手はだしません。まつりがはじまると、神主(かんぬし)さまは無言(むごん)の行で、天狗になったものも装束(しょうぞく)をきて青竹(あおだけ)をたたきながら無言でふもとのお宮(みや)をまわり、愛宕山にのぼるのです。
※霜月…11月
※精進潔斎…身を清(きよ)めることです。
※行…さとりを開(ひら)くためにおこなう修行のことです。
※水ごり…つめたい水で身を清める行のことです。
※炊事…料理することです。
出典:いわまの伝え話
カッパのはなし
むかし、涸沼川(ひぬまがわ)には、カッパが住(す)んでいるといわれていました。カッパは、川の中でも深(ふか)いところや、ながれの急(きゅう)なところに住んでいて、水あそびをしたりしているところへきては、足をひっぱり、こどもたちをおぼれさせてしまったということです。
長兎路(ながとろ)のこどもたちは、夏(なつ)になるとよく涸沼川へあそびに出かけました。川根橋(かわねばし)から仁古田橋(にこたばし)までおよぎの競争(きょうそう)をしたり、むこうぎしまで泳(およ)いだり、朝から晩(ばん)まで涸沼川で遊んでいました。
あるとてもあつい日、こどもたちはいつものように涸沼川で遊んでいました。涸沼川には、土地(とち)の人から「しょんべんぶり」とよばれている深いところがあります。
「しょんべんぶりに行くと、カッパに足をひっぱられるからいくんじゃないよ」
と、おとなたちはこどもたちに言いきかせていました。
ところが、その日、ひとりのおとこの子が泳ぎに夢中(むちゅう)になって、「しょんべんぶり」のところに泳いでいってしまいました。そのときです。カッパが、水の中からその子の足をひっぱりました。カッパはつよい力で、いつまでも、足をひっぱっていたのでしょうか。その子は二度(にど)とみんなと遊べなくなってしまいました。
それから数ヶ月後(すうかげつご)、涸沼川のふちに水神様(みずがみさま)がまつられました。
大蛇(だいじゃ)のはなし
むかし、住吉(すみよし)にはやくから桃(もも)を作っていたおじいさんがいました。おじいさんの桃がみのってくると、どこからともなくこどもたちが集(あつ)まってきました。
おじいさんは、
「桃とっちゃあ、なんねえぞー」
と、こわーい顔(かお)でこどもたちをにらみつけます。
「桃が食いてえなぁ」
「桃、うめえべなぁ」
こどもたちは、桃が食べたくて食べたくてしょうがなかったそうです。
ある日、こどもたちはおじいさんのいないあいだに、とうとうおじいさんの大切(たいせつ)にしている桃の実をとってしまいました。
そのときでした。くすぬき池(いけ)にすんでいる大蛇があらわれて、こどもたちを追(お)いかけてきたのです。こどもたちはびっくりして、夢中(むちゅう)で逃(に)げたそうです。その大蛇のおそろしさといったらありません。かま首(くび)をもたげ、火のようなベロを出しながら、すごいはやさで追いかけてきます。こどもたちはおそろしくて、おそろしくて、顔(かお)はまっさお、声(こえ)も出なかったそうです。
「こどもたちを追いかけてきたその大蛇はなぁ。今度(こんど)は随分附(なむさんづけ)の東池(ひがしいけ)に住んでいるんだと。人のものを盗(ぬす)んではなんねえんだぞ」
このおはなしは、随分附のおじいさんが、こどものころにきかされたおはなしでした。
豆煎(まめい)り観音(かんのん)
住吉新宿(すみよししんじゅく)では、7月19日の夜7時半から9時ころまで観音様にお参(まい)りをします。
おもちをさいの目に切(き)って油(あぶら)で揚(あ)げて、御重箱(おじゅうばこ)に入れてろうそくと御賓銭(おさいせん)をもって観音様に奉納(ほうのう)します。
奉納の時にいっしょにろうそくに火をつけてお参りします。
安産(あんざん)、こどもの成長(せいちょう)、安全(あんぜん)などをお願(ねが)いします。
みんなが集(あつ)まり、ろうそくがある程度(ていど)短(みじか)くなったころあいをみて、親(おや)といっしょに来たこどもたちにおもちが均等(きんとう)にわけられます。それでみんなでお開(ひら)き。最後(さいご)にろうそくを持って帰(かえ)ります。そのろうそくは今度(こんど)、子安講(こやすこう)の時に妊娠(にんしん)している人、それから持ちたい人はそのろうそくをもらってきます。短ければ短いほどいいそうです。
豆煎り観音の言いつたえは、むかし、文亀に2年小原(ぶんきにねんおばら)の里見(さとみ)という権力者(けんりょくしゃ)が廣慶寺(こうけいじ)を引っぱってきたときに、観音様をおいてきてしまったといわれています。以前(いぜん)はお参りはしたが集まりはしなかったそうです。こどもが多くてよろこばせようと、もちを油で揚げて7月19日に食べさせたのがはじまりで、明治(めいじ)はじめ、豆煎り観音という7月19日の行事(ぎょうじ)となったそうです。(現在(げんざい)、住吉山廣慶寺は小原にあり)
石が建っているだけで、豆煎り観音は外で行われるそうです。
たぬきのお月さん
むかし、おじいさんが、友部(ともべ)からの帰り道(みち)、いい気持(きも)ちで山道(やまみち)をあるいていました。お酒(さけ)をたくさんごちそうになってきたものですから、そのうち、山道に寝(ね)こんでしまいました。
ふと気(き)がつくと、松(まつ)の木のちかくに月が見えます。ところが、その月が「ポーン」とむこうの木に飛(と)びました。
「おやっ」
と思(おも)うと、また次(つぎ)の枝(えだ)で、お月さんのように、じっとおじいさんを見ています。
「ふふーん、たぬきのしわざだな」
おじいさんは、持っていた杖(つえ)をふりまわしました。
「ピョーン、ピョーン」
たぬきはおじいさんの目の前(まえ)を、枝から枝へ飛びうつりました。すると、おじいさんもまけずに杖をふりまわしました。
そのうち夜が明けて、たぬきはいなくなっていました。
住吉(すみよし)の利助池(りすけいけ)にはたぬきがたくさんいたということです。
きつねの嫁入(よめい)り
大正時代(たいしょうじだい)の5、6月の入梅(にゅうばい)のころは、よくきつねの嫁入りが見られました。
とてもげんきなおとこの子が、ホタルがりに、家の外に飛(と)び出して行くと、外はまっくらやみ、雨もしとしとと降(ふ)っています。ホタルとりに夢中(むちゅう)になってあるいていると、
「おやっ」
ピッカン、ピッカン、ピッカン、ピッカン。ちょうちんをつけたきつねが列(れつ)をつくって、小高(こだか)くなっている涸沼川(ひぬまがわ)のむこう岸(ぎし)の土手(どて)をあるいていました。
しとしと雨にぬれながら、きつねの嫁入りの行列(ぎょうれつ)は、土師(はじ)の方へとあるいていきました。
一本桜(いっぽんざくら)・天狗党(てんぐとう)の塚(つか)
涸沼川(ひぬまがわ)の根岸(ねぎし)に広がる長兎路(ながとろ)の田んぼの畦道(あぜみち)に1本のさくらの木がありました。さくらの木の側(そば)には、小さな塚(つか)がありました。これはここで自害(じがい)した天狗党の塚といわれています。
水戸浪士(みとろうし)の尊皇撰夷運動(そんのうじょういうんどう)は1864年(元治元年(がんじがんねん))藤田小四郎(ふじたこしろう)による筑波山(つくばさん)の挙兵(きょへい)でその頂点(ちょうてん)に達(たっ)しました。これを世にいう天狗党の乱(らん)(討伐(とうばつ)にあたったのが弘道館(こうどうかん)の学生(がくせい)が多かったことから天狗諸生(てんぐしょせい)の争乱(そうらん)ともいう)です。
たたかいの展開(てんかい)は筑波山から那珂湊(なかみなと)に移(うつ)り、さらに久慈郡大子(くじぐんだいご)から京都(きょうと)にむかう途中(とちゅう)の敦賀(つるが)に近い新保(しんぼ)の本陣(ほんじん)で、力つきて天狗党一行(いっこう)は降伏(こうふく)することになります。長老武田耕雲斎(ちょうろうたけだこううんさい)(もと家老(かろう))をはじめ小四郎たち352人が斬罪(ざんざい)になり、指導者(しどうしゃ)4人の首(くび)は水戸におくられてさらし首にされました。耕雲斎の家族(かぞく)は3歳(さい)の幼児(ようじ)まで死罪(しざい)となったといわれています。
一本桜と塚は、道路拡張整備(どうろかくちょうせいび)でなくなったということです。
また、天狗党の秘話(ひわ)は孫六山(そんろくさん)にも残(のこ)っています。孫六山は北川根(きたかわね)と宍戸(ししど)の境(さかい)にあり、住吉(すみよし)の川郷地池(かわごうちいけ)の土手(どて)をまっすぐ行くと孫六山に出られたそうです。たたかいに破(やぶ)れた天狗党は筑波山にこもっていましたが、やがてその残党(ざんとう)たちはここ孫六山におちのびてきて、切腹(せっぷく)したといわれています。