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文化・歴史

笠間の歴史探訪(vol.11~20)

11.笠間の時鐘

笠間日動美術館の脇の登り坂は、4月の桜の時期には美しい桜樹の花のトンネルとなり、この道を登り鍵の手に曲がると山麓公園の入り口です。

寛永20年(1643)笠間藩主浅野長直(あさのながなお)は、ここに下屋敷を建設しました。道をはさんで東側に「藩庁」「藩主御殿」西側に「御蔵」「御金蔵」「鐘楼」などがありました。

時鐘のはじまりは、寛文2年(1662)当時の笠間藩主井上氏の家臣中島清右衛門尉(なかじませいうえもんのしょう)友重(ともしげ)が、新町の商人滝野伊兵衛一永(たきのいへえかずなが)に時鐘を設けるように提案して、佐白山正福寺の梵鐘を借り受け、大町にあった極楽寺に鐘つき堂(鐘楼)を建て、鐘をついて城下の人々に時を知らせたのが始まりといわれています。

のちに、茶釜の生産で知られている佐野天明(栃木県佐野市)で新しい鐘を鋳造し、宝永年間(1704~1710)には、60代の4人が鐘つきの仕事にあたっていたといわれています。(「町方軒別書上(まちがたのきべつかきあげ)」)

3代目にあたる今の時鐘は、明治になり一時中断していましたが、明治22年から再開し、その後14年間は、荒木尚弼(あらきなおすけ)が撞き手を務め、2代目の撞き手は磯常吉(いそつねよし)が5年間、3代目の撞き手は川上鶴吉(かわかみつるきち)が14年間、そして大正10年(1911)から4代目の三村豊美(みむらとよみ)が、昭和39年7月まで、実に43年に亘り、朝5時から夜7時まで、町の人々に時を告げていたのです。また、この鐘楼からは笠間の街がよく見渡せたので、火災の発見も早く、戦時中には警報発令にも、鐘を打ちならしました。

笠間の詩人、田崎秀(たさきしゅう)は、昭和33年「やわらかく時鐘のひびき溶けてゆく、盆地の空気吾も吸うひとり」と詠んでいます。

また、この年に、テレビ児童劇映画として、文化映画研究所が「鐘つき仙人と猪狩り」を笠間町の協賛を得て作りました。三村氏の一身一体の働きと、公園内で飼育されていた小猪にまつわる小学生の動物愛をテーマにしたもので、「シナリオ」は手元に残されていますが、映画はどこにあるのか、知りたいものです。三村氏は、昭和39年、82歳で没しました。その後、時鐘は昭和45年に、富士山中腹の佐白観音境内に移り、朝の鐘と除夜の鐘として、住職とその家族によって撞かれていました。

昭和48年に笠間市は、時鐘を市指定文化財に指定し、住職がなくなったのちの平成13年に、「時鐘楼」を建て、保存しています。

この「時鐘楼」は、自動で撞くことができる装置が施されているとのことなので(商工観光課所管)「時の記念日」などに、市民に広報した後、なつかしいこの鐘の音色を聞かせてほしいものです。

(平成25年4月 能島 清光)

 

『『11時鐘』の画像』の画像
山麓公園 鐘楼



12.明治天皇行幸記念碑

宍戸駅前のロータリーの中に、「駐蹕記(ちゅうひつき)」と題する記念碑があります。駐蹕とは、天皇が外出(行幸(ぎょうこう))されたときに一時滞在されることを意味します。上部の篆書体(てんしょたい)の「明徳(めいとく)」の文字(篆額(てんがく))と文章は、西茨城郡長遠山千里の手になり、書は宍戸町長鈴木重嗣(すずきしげつぐ)によるものです。明治40年(1907)に宍戸町の有志が建立しました。

明治天皇は、同23年10月、岩間村の室野原(むろのがはら)(笠間市)・園部村の成井原(なるいがはら)(石岡市)で実施される近衛師団の演習を統監(とうかん)されるため、26日に水戸市の行在所(あんざいしょ)へ入られました。常磐線が未開通のため、小山駅経由で水戸鉄道を利用されました。翌日、水戸駅より列車が宍戸駅へ到着すると、町長はじめ多くの町民や小学生らが整列し、「君が代」を合唱してお迎えしました。天皇は小休止されたのち、室野原の演習地へ向かわれました。その日は水戸の行在所に宿泊なされ、28日は成井原での演習と観兵式(かんぺいしき)に臨まれました。

この演習に同行された皇后の10月27日の日記を、口語体に改めて紹介いたします。

 

天皇は、汽車で宍戸駅まで行かれました。そこから金華山(きんかざん)という名の愛馬に乗られ、随従する有栖川宮(ありすがわのみや)・北白川宮(きたしらかわのみや)や大臣・政府高官そして近衛の将校たちも、馬でつきしたがいました。私(皇后)は馬車で行きました。

岩間村に達した頃、あちこちから煙がたちのぼり、砲声がきこえてきました。近衛師団は両陣営に分かれ、各々赤・白の旗を風になびかせ、馬の鳴き声もここかしこからきこえてきました。両軍の戦いが頂点に達した頃には、砲声が絶え間なく響きわたりました。天皇は心をはずませ、別の方にお馬を進められ熱心に演習をご覧になられました。(中略)終了の報告がありますと、天皇は御野立所(おんのだちしょ)にしばらく休息され、再び宍戸駅から汽車で行在所へ帰られました。


天皇が休息された岩間下郷の地には、記念碑と「明治天皇御野立所」の碑がひっそりとあり、当時のことを今に伝えています。

※行在所/天皇の外出時の住まいのこと 、御野立所/天皇や貴人の野外の休息所のこと

(平成25年4月 幾浦 忠男)

 

『12行幸記念碑』の画像
宍戸駅前に建つ 明治天皇行幸記念碑



13.「安候駅家」推定地

JR岩間駅から東へ7キロメートル、常磐自動車道の高架橋をくぐると、そこは笠間市安居地内。昔から八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)が奥州征伐の帰り道、焼き討ちをしたといわれている「あずま(持丸)長者伝説」がある場所です。その畑からは焼き米が大量に出土し、古代道が通り、「安侯駅家」があったといわれています。

今から1300年前の奈良・平安時代の頃、蝦夷(えぞ)討伐のため中央と地方を結ぶ「駅路(うまやじ)」が整備され盛んに兵士が兵糧(ひょうろう)等を運ぶため利用していました。この古代道には、16キロメートルごとに駅家が設けられ朝廷から派遣される使者の宿泊施設や乗り継ぎの馬などが用意されていました。安侯駅家のあった駅路は、都から常陸国府(石岡市)までの東海道を延長し、陸奥国(現在の東北地方)へ行くために造られた常陸国最古の主要な道路でした。

平成10年、五万堀古道(長兎路)の発掘調査により10m幅の直線道路が発見され、8世紀前半に造られたことが判明しました。その延長上に位置する安居地内も古代道が通っていたことが確実となりました。翌年、安侯駅家推定地より南へ500mの民家の庭から「騎兵長十」と書かれた墨書土器(ぼくしょどき)が出土し、確かに古代道が通り、兵士がこの地を行き交う駅家の存在が改めて証明されました。その後、本格的に周辺の学術遺跡調査が行われました。駅家としては珍しい「版築基壇(はんちくきだん)」という礎石建物跡が発掘され、大規模な法倉(米蔵)が建っていたことがわかりました。その他、掘立柱2棟なども発見され、より駅家跡の可能性が大きい結果となりました。

今でも石岡市の一里塚から県道52号線(石岡城里線)を真直ぐ下ると古代道とほぼ同じ道筋をたどることができます。途中小美玉市の「手堤(てつづみ)」の地名は、八幡太郎義家が5万の兵隊を率いて奥州へ向かう時、大雨で池の水があふれて通れないので、手で土をもって土手を築いたところから名付けられたと言われています。そこから岩間地内、農業総合センターへ入ると、転々と古代道跡が残っています。また、吉沼に入る山林には「五万人窪」という地名があり、軍勢五万人がここで雨宿りをしたといわれています。その他八幡神社や腰掛石など多くの伝説が残り、今でも遠いいにしえの栄華を忍ばせています。

(平成25年6月 川﨑 史子)

14.笠間大町の三所神社

水戸方面から旧笠間市街に入りますと、大町通り東側に石鳥居が見えてきます。その奥に鎮座するのが三所神社です。笠間の人々は、「三社(さんじゃ)さん」の名で呼んでいます。

弘治2年(1556)9月の「三所大明神(さんじょだいみょうじん)縁起(えんぎ)」(仁平家所蔵)を中心に、同社の由来を紹介します。鎌倉時代に、三所神社一帯は笠間馬場郷と呼ばれ、その一画には平安時代初期の貞観年間(859~876)に大己貴尊(おうなむちのみこと)(大国主命(おおくにぬしのみこと))の妃、三穂津姫(みほつひめ)を祀る社が鎮座していました。建長2年(1250)、宇都宮氏一族の生まれの笠間城初代城主笠間時朝(ときとも)は、一族の氏神(うじがみ)である宇都宮大明神(宇都宮二荒山(ふたらさん)神社)の祭神(大己貴命・事代主命(ことしろぬしのみこと)の父子神、そして建御名方命(たけみなかたのみこと))を三穂津姫社の地に勧請しました。宇都宮大明神の三神と三穂津姫の四神を祀る社殿を中央に、右手に宇都宮氏が藤原氏一族であるところから、藤原氏の祖先神天児屋根命(あめのこやねのみこと)を、左手に武家の守護神誉田別命(ほんだわけのみこと)を祭神とする八幡宮と、三つの社殿に祀り、笠間時朝は同社を笠間城及び城下の鎮守としました。

同社の再建・修復は時の城主が担当しました。室町時代文明9年(1477)の笠間綱久(つなひさ)による修復時の棟札、そして江戸時代の本庄宗資(ほんじょうむねすけ)による元禄10年(1697)の再建記録が残っています。牧野氏の治世には、藩主が初めて笠間へ国入りの際に同社へ参拝するのが恒例であり、正月2日に家老が、5月と9月に給人が代参をしています。

同社の神職は、鎌倉時代末期の嘉元年間(1303~05)に笠間氏の家臣仁平大膳(にへいだいぜん)正(のかみ)藤原正義が城主より社務職を命じられ、その後同家が代々務めているといわれます。

(平成25年10月 矢口 圭二)

 

『14三所神社の本殿』の画像
三所神社の本殿



15.笠間城八幡台櫓

笠間市街地の大町・愛宕町を北に進むと、左手に笠間保健センターがあり、少し行くと右手に日蓮宗長耀山(ちょうようさん)真浄寺(しんじょうじ)があります。その入り口には「南無妙法蓮華経」の題目碑が建っています。

山門の奥に22段の石段があり、その上に、総欅材、二層入母屋造り、瓦葺きの七面堂があります。堂内には七面天女・鬼子母神・三十番神の三尊が安置され、多くの人々に信仰されています。

この堂は、もと笠間城の本丸の八幡台にあった物見櫓(ものみやぐら)で、明治維新後の廃城の時に、真浄寺の檀信徒が払い下げを願い出て、明治13年(1880)に解体して境内に運び入れ、七面堂とし再活用した建物です。

昭和44年(1969)に笠間城のゆかりの建造物「笠間城櫓」として、茨城県の文化財に指定されました。

同49年には構造はそのままにして解体修理され、現在の白壁の櫓に復元されました。櫓の規模は、一階間口8m、奥行き6.57mあります。

笠間城は山城で、天守櫓、宍ヶ崎櫓(ししがさきやぐら)と八幡台櫓の3棟があり、戦時は物見櫓として使用されました。

八幡台櫓は、江戸時代は武器倉庫に使われ、延享4年(1747)の記録によると次の武具が格納されていました。

弓20張、鉄砲60挺、長柄(ながえ)30本、靱(うつぼ)20穂、根矢(ねや)200筋、鞢(ゆがけ)20指、胴乱50、口薬入50、玉箱二荷、玉大小三3000、大縄100筋、猩々皮(しょうじょうひ)鉄砲袋50、合塩硝(えんしょう)70貫目、塩硝30貫目、硫黄10貫目、鉛30貫目、鋳型大小8つ、鋳鍋大小5つです。

この多量の武具は城主が転封(てんぽう)する度に目録と照合し、厳重に引き継がれました。平時でも、武具の手入れや保管などに相当神経を使ったことでしょう。

この建物は、江戸時代には櫓として城や武具を守り、明治からはお堂として人の心を護っています。

(平成25年12月 小室 昭)

 

『笠間城八幡台櫓(七面堂)』の画像
笠間城八幡台櫓(七面堂)



 16.養福寺の元治甲子之変殉難碑

笠間市大田町の養福寺境内に、水戸藩天狗党の乱で犠牲となった宍戸藩主松平頼徳(よりのり)と家臣62名の殉難碑(じゅんなんひ)があります。この石碑は、明治5年(1872)3月に建てられ、撰文と書は宍戸藩校脩徳館(しゅうとくかん)教授であった川口翊宸(よくしん)の手によるものです。

天狗党の乱は、元治元年(1864)、藤田小四郎・竹内百太郎ら50名ほどが、尊王攘夷(そんのうじょうい)を唱えて筑波山に旗揚げしたことに始まります。天狗党は筑波山から、日光・大平山(栃木県)に移り、再び筑波山へ戻ってきました。その間、田中愿蔵(げんぞう)らの一派が、金銭を強要して栃木町や土浦の真鍋(まなべ)を焼きました。

幕府は天狗党追討軍を組織して、常総地方(茨城・栃木)に派遣し、諸藩にも出動を命じました。追討軍の総督は、若年寄(わかどしより)の田沼尊意(たぬまおきたか)で、高道祖(たかさい)や下妻で最初の衝突があり、天狗党が勝利しました。この戦いに敗れた諸生(しょせい)派の市川三左衛門らは水戸城を固めました。

水戸藩主徳川慶篤(よしあつ)は、幕府の要請もあり、支藩の宍戸藩主松平頼徳を名代として、天狗争乱を鎮めるため水戸に下向させました。頼徳は8月4日水戸に向かい、10日水戸台町の薬王院(天台宗)に入りましたが、水戸城への入城を拒否され、やむなく那珂湊に移りました。幕府の追討軍は、本陣を笠間月崇寺(げっそうじ)から水戸弘道館に移し、那珂湊の天狗党を攻撃しました(那珂湊戦争)。

頼徳は、争乱を鎮める責任を果たせなかったので、一旦江戸に帰って報告しようと那珂湊を離れましたが、その情報を掴んだ幕府側に西郷地(さいごうち)(小美玉市)のあたりで捕らえられ、水戸に連行されました。幕府は頼徳を「賊魁(ぞくかい)」として処断し、宍戸藩を取りつぶして藩主の頼徳に切腹を命じました。

頼徳の刑が執行される10月5日早朝、頼徳は切腹に先立って辞世の歌をしたためました。

思いきや野田の案山子(かかし)の竹の弓

引きもはなたで朽(く)ち果(は)てんとは

天狗争乱の宍戸藩の犠牲者は、60名を越しました。今年は、天狗争乱から150年に当たります。殿様をはじめ、藩士・領民たちの供養(くよう)をしたいものです。

(平成26年2月 南 秀利)

 

『16殉難碑』の画像
養福寺殉難碑



17.小原地区の古墳の調査

小原は、「常陸風土記」の那珂郡の条にある「茨城の里」で、茨城(いばら)がなまって小原(おばら)となり、茨城の名の発祥の地ともいわれています。このようなことから、小原地内には、原始から古代にかけて継続する遺跡が多く、かなり栄えた地であったと推定されます。

昭和50年(1975)小原古宿の広慶寺(こうけいじ)墓地造成中に、高寺古墳群2号墳の石室が露出したことから、古墳の調査が行われました。主に埋葬施設のみの調査でしたが、石室は、花崗(かこう)岩の大きな割石を用いた片袖式の横穴で、内部から直刀7振、鉄鏃(てつぞく)23点、刀子(とうす)、つば等の鉄製品、銀環、切子玉、管玉、ガラス製小玉等や残された墳丘から、武人埴輪5片、円筒埴輪片、提瓶(ていへい)1個が検出されました。被葬(ひそう)者は、7世紀ごろの有力氏族で、小原が旧茨城国の中心でもあったとする説を裏付けるとともに、古代氏族の解明に一石を投じる意義深い調査でした。

笠間市では、この二号墳を市指定文化財【史跡】として復元し、保存状態のよい出土品は市指定文化財【考古資料】に指定して、笠間市立歴史民俗資料館で保存、展示しています。古墳とあわせて出土品を鑑賞し、古代の文化にふれてみてはいかがでしょうか。

(平成26年4月 能島 清光)

 

『17高寺二号墳』の画像
高寺2号墳出土遺物
(笠間市立歴史民俗資料館)



 18.涸沼川ほとりの道標と道場の伝説

 平町の上町(かみのちょう)地内、県道稲田友部線の涸沼川沿いの分かれ道に、「右かさま道 左はぐろ道」と自然石に刻んだ古い道標(どうひょう)があります。左隣りの花崗岩の角柱には、「右笠間街道 左南山内村上加賀田道」と刻まれています。道標から右手、北西への道が笠間道(笠間街道)で、諏訪(すわ)神社(宍戸神社)の鳥居の前を通り、手越を経て笠間城下へ入ります。左手に延びる西への道は、上加賀田を通り山麓(さんろく)をめぐりながら羽黒(桜川市)に至ります。

江戸時代初期の「宍戸御城並家中絵図」を見ると、笠間道が古い道標と同じに記されています。一方、古い道標から東へ進み下町(しものちょう)のところで南へ向かう道に、江戸道と記されています。昔の道は、行き着く先の地名が呼び名になることがありました。

笠間と江戸を結ぶ道は、人の往来や物資の輸送と共に、笠間藩主の参勤交代に使われました。笠間を出立(しゅったつ)し、宍戸―岩間滝尻―府中(石岡市)を経由するのが、笠間藩の江戸東道中です。明治になり、江戸道が東京道となっても、この道は笠間と石岡を結ぶ幹線道路として使われました。

現在、宍戸の八反山(はったんやま)から南小泉までの旧道沿いに、案内の標柱8本が設置されています。

涸沼川の道標南のところは、その昔深い淵(ふち)になっていました。北岸の高台にかつて新善光寺があり、僧侶が修行などをする道場があったことから、道場淵と呼ばれるようになりました。この淵に昔から伝わる話があります。

道場淵に借りたい品物の名を紙に書いて投げ入れると、必要な品物が浮かび出ました。ある時、里人(さとびと)がお椀(わん)十個を借り、そのうち一個を破損してしまいそのまま返しました。

それからというものは、何回紙を投げ入れても浮かび出ることはありませんでした。

この伝説は、人としての信義、すなわち約束を守ることの大切さを教えていると思われます。

(平成26年6月 幾浦 忠男)

 

『18道場淵』の画像
(左から)
(1)「右笠間道~」花崗岩の角柱
(2)「右かさま道~」古い道標
(3)「馬櫪神」石塔(明治22年建立)



 19.岩間地内を通る瀬戸井街道の今昔

江戸時代の初め、水戸の城下を起点として河和田―鯉渕―住吉―土師(はじ)と現在の岩間街道とほぼ沿った道が瀬戸井(せどい)街道として整備されていました。この街道は、その先、筑波山参詣のために市野谷―泉―山崎―柿岡―北条―高道祖(たかさい)、また物資の流通や情報伝達の道として、道幅二間(3.6m)と中道ですが下妻―古河を通り、上野国(こうずけのくに)巴楽郡(おうらぐん)瀬戸井(群馬県千代田町)まで続いていました。(結城郡八千代町までの説もある。)
江戸時代になると、庶民の信仰心も広まり愛宕山、筑波山神社などへの参詣に、多くの人々がこの道を利用しました。水戸藩国学者安藤抱琴(ほうきん)は元禄3年(1690)京都への旅の途中、泉村から見える愛宕山を見上げ「いつの世かここに移して白雲の愛宕の山の名を残しけん」と京都白雲寺を思って和歌を詠んでいます。また、宝暦3年(1753)水戸藩士三橋夕流(みはしせきりゅう)が、友人とともに筑波参詣に行く途中、市野谷から横道に入って愛宕山へ参詣し、物見台から笠間城、水戸城を見渡し賞賛しています。その後も文化15年に水戸藩学者小宮山風軒(こみやまふうけん)や彰考館総裁立原翠軒(たちはらすいけん)などが筑波山参詣に、文政6年(1823)仙台領の農民阿部林之丞(じょう)がお伊勢参りに、その他越後の算学者山口(やまぐち)和(かず)など、瀬戸井街道について多くの旅人の記録が残されています。

時は過ぎ、幕末元治元年(1864)7月29日、瀬戸井街道沿いの土師村は、天狗党事件に巻き込まれます。住吉村から土師村に追い込まれた田中愿蔵(げんぞう)隊(天狗党)と鯉渕勢は激しい戦闘となり、土師村街道沿いに16件が焼き討ちに遭い、庄屋以下6名が即死、5名が負傷と、甚大な被害をこうむりました。今もなお、「明神山(みょうじんさん)の戦い」の結果として、土師の淡島(神社には拝殿の北側に焼け焦げの跡が残り、当時の戦闘の激しさを今に伝えています。

平成11年茨城県土木部が「歴史と語らいの道」として涸沼川にかかる船場橋南の駐車スペースに道標と看板を立て、瀬戸井街道の今昔を伝えています。

 (平成26年8月 川﨑 史子)

 

『19瀬戸井街道(岩間街道)標識』の画像瀬戸井街道(岩間街道)標識



 20.岩間・安居の塙家住宅 

岩間支所南の街道(川根街道)を東へ進み、押辺集落を過ぎ常磐自動車道のガードを潜った先が上安居(かみあご)です。塙家は同集落の中ほどにあります。塙家には18世紀半ばに建てられ、昭和51年2月に国の重要文化財の指定を受けた住宅が大切に保存されています。

住宅の特色は、主屋と釜屋からなる分棟型の建築様式で、指定後に解体修理が施され、建設当初の姿に復元されました。建坪の総面積が68坪余、主屋と釜屋が曲り屋風に建ち、両棟の連続する屋根の谷となる部分には雨水を受けて流す、巨木を刳り抜いた大樋(おおとい)(谷樋)を据えています。

入り口は釜屋の南側にあり、大戸(おおど)と呼ばれる頑丈(がんじょう)な戸を開けて入ると内部は土間が広がっています。広い土間は雨天の際の農作業が可能です。土間の右手に厩(うまや)が2つ並び、厩の階上は奉公人の住居であったといわれています。土間の奥に煮炊き用の竈(かまど)が設けられ、大勢の人寄せが可能です。

土間から主屋への上がり框(がまち)があります。主屋は、上がり端の広間とその右奥の炉端(ろばた)を囲む部分が板の間になっています。板の間左奥に、畳の間が田の字型に4間あります。表側に仏間・上座敷が並び、その裏手に奥座敷と「へや」があります。奥座敷には床の間がつき、両座敷の外側に縁が廻っています。以上の家の構造と構成から、この住居は村役人層の住居と考えることができます。

塙家は、江戸時代初期の宍戸藩主秋田氏の家臣で、正保2年(1645)同氏が陸奥(むつ)・三春(福島県)へ移る際、当地に帰農・土着したと言われています。当主は代々忠右衛門を名乗り、旗本小菅(こすげ)氏領の上安居村名主を長く勤めていました。

宝暦12年(1763)の「住物(じゅうもつ)(什物)改め覚書」(塙家蔵)には、当時の塙家について持高(もちだか)26石余、屋敷地7畝(せ)12歩(ぶ)、家68坪と記録されています。家の備品をさす什物には、大戸1(本)・戸63・杉戸(すぎと)2・格子戸(こうしど)2・襖(ふすま)6・畳(たたみ)55(畳(じょう))などとあります。復元された建物の間取り図と合わない点があるものの、この住居が、18世紀半ばの建設である事を裏付ける貴重な記録です。

(平成26年10月 矢口 圭二)

 

『20塙家住宅』の画像
塙家住宅




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このページに関するお問い合わせは生涯学習課です。

〒309-1792 笠間市中央三丁目2番1号

電話番号:0296-77-1101 ファックス番号:0296-71-3220

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